思い出の地・和歌山 青春とのわかれ 

14日、15日と和歌山へ行ってきました。
何度か書いていますが、わたしはいま、被災障害者支援「ゆめ風基金」の手伝いをしています。主に東日本大震災の障害者救援活動にかかわる仕事をしてきましたが、9月の台風12号の被災状況を知るために、和歌山の障害者事業所を訪問してきたのでした。
訪問した所で感じたことも多々あったのですが、個人的には今回訪れた地は思い出深い場所で、とてもせつない感傷につつまれながらの旅でした。

高校3年の夏、友だち4、5人と和歌山に行きました。手のひらに小さな山ができるぐらいの薬を飲み、一膳飯屋をしながら兄とわたしを高校まで行かせてくれた母に、息子を旅行に行かせる余裕などありませんでした。いま思えば身を削るようにして蓄えたわずかなお金から、旅行の費用を工面してくれたのだと思います。
わたしのはじめての旅は、段取りをしてくれた友だち、2年前に逝ってしまったあのK君のいたずらで実は泊まるところも決めず、急行「きのくに」に乗ったもののどこの駅に降りるのかも気分しだいで、その後はヒッチハイクで白浜に行くことになりました。不安を横に夏の小さな冒険は夜おそく降りた、すさみ駅からはじまりました。その夜はつり宿に泊めてもらいました。あくる朝、海岸にそった道路を白浜に向かって歩きはじめました。片っ端に手をあげるものの、そんなに簡単に車が止まってくれるわけはありませんでした。
夏の太陽は容赦なくそそぎ、わたしたちは思わず海にとびこみました。そこはなんのかわったところもない入り江でしたが、水がこんなに透明になることができるのかと思いました。底には色とりどりの石がばらまかれ、小さな魚たちがわたしたちを無視して泳いでいました。わたしは仰向けになり水の中で目をあけました。夏の太陽はゆらゆらと光のカーテンを編んでいました。
小学校から高校まで、わたしは母親しかいないことや貧乏であることよりもなによりも、どもるくせに悩んでいました。同級生たちに「こいつとつきあったらどもりがうつる」といわれたことや、授業中にどもって本が読めなかったことを、いまでも時々夢に見ることがあります。心を硬く閉じてしまった対人恐怖症の少年が大人になるには、どれだけの時間が必要だったのでしょう。
ところがどうだ、この水の中で感じる世界は、なんと美しく、わたしをこんなに大きくやさしくいとおしくせつなく、「だいじょうぶだよ」とつつんでくれるのでした。もうだれひとりわたしを笑いとさげすみで見るものもなく、わたしはきらきらかがやく世界の一部になりました。
太陽の光が波にゆれるたびに、水の中のさまざまな塵や小魚、小石までもが小さな泡をぷくぷくゆらし、光と影がダンスをくりかえす。わたしのかたくなな心からとめどなく涙があふれ、海の水に溶け込んでいきました。
「わたしはもう一度ここに来る。」と、その時誓いました。」

実際、旅行経験が極端にすくないわたしにとって、あのときの旅は特別のものでした。あれから後、白浜までは何度も行きましたが、仕事とはいえ一人で46年ぶりに思い出の地を旅することになるとは思いませんでした。
朝早くに能勢を出て、天王寺を9時21分に出発した特急くろしおの座席から風景をながめていると、46年の時をへだててもなお青春の渕に立ちつくし、自分が何者かという問いすら発せられないまま不安と怖れにおののいていた18才のわたしがとなりの座席に座っているのでした。
46年前は夜でしたので、実際は窓の外は真っ暗で、時々通りすぎる駅のまわりにひっそりと裸電球が泳いでいたり、ぼんやりとした家の明かりが点在するのをながめていたように思います。今回は昼間でしたので、ほんとうははじめての風景のはずなんですが、わたしの心の暗室に長い年月眠っていた古い写真のように、とてもなつかしく思うのでした。
すさみの駅を通りすぎる時はとくに胸が熱くなりました。46年もたっているのですから都会ほどではないにしてもそれなりには変わっているはずですが、散髪屋の赤白青のまわる看板が痛々しい路地や当時よりきれいになった駅舎、そして、そこに泊ったのかも知れない船宿、鈍く光る銀の海を見ていると、わたしの人生はここからはじまったのかもしれないと思いました。
この駅で降り、船宿で格別においしい魚を食べたあくる日、炎天下の中をここから遠く新宮まで、そこから反転して白浜までをヒッチハイクでたどった4人の高校生がその後どんな人生を生きたのか、最後まで友だちでいたK君はすでになく、他の3人の行方はわかりません。おもわず飛び込んだ入り江も、もしこれからいつかすさみ駅でおりて新宮までの国道を歩いても、おそらく見つけることはできないでしょう。
時が過ぎるということは、その後の新しい出会いをつくるとともに、ほんとうにたくさんのさよならを用意するものだと、つくづく感じました。
サスペンスドラマだけでなく、実際の犯罪捜査でも「アリバイ」が問題になりますが、犯罪が起こった現場にいなかったという「不在証明」は、別の場所にいたという「存在証明」によって立証されます。それならば、46年前にともだちと旅した地をたどる今回の旅は、わたしの人生にあったかもしれない「不在証明」だったのでしょうか、それとも「存在証明」だったのでしょうか。あの痛々しい青い時をくぐりぬけた果てに、わたしは別の生き方を選ぶこともできたのでしょうか。
そんな理屈を考えていると、わたしはやはり、わたしの人生を生きるしかなかったのだと思います。その後就職した建築設計事務所は半年でやめ、3年ほどフリーターでビルの清掃で食いつなぎ、妻との結婚の必要条件のように妻の父親の会社に入り、20年近く勤めたこと。その後、設立されようとしていた豊能障害者労働センターと運命的に出会い、貧乏ながらも夢を持って同じく20年近く働いたことなど、どれをとってもその時々のわたし自身をとても愛おしく思うのです。
わたしは天王寺へと帰る特急電車の座席に深く身をしずめ、遠くに去っていくなつかしい風景をながめていました。時折通りすぎる駅のホームには、隣に座っていたはずの18才のわたしがひとりずつ立っていて、手をふりながらわたしを見送ってくれました。わたしも「さよなら」と手をふって、青春との別れの旅を終えたのでした。

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