2003年秋、吉田たろうさん追悼

今回の衆議院選挙について思うところがありますが、それは次回以後の記事にすることにします。
2022年版が最後になるカレンダー「やさしいちきゅうものがたり」について、ホームページからの転載もありますが何回かの記事にさせていただきます。今回は初代イラストレーター・吉田たろうさんの回顧録です。

吉田たろうさん追悼 2003年秋

そのひとの目は細く小さかった
最初に発明された写真機が人間の目だとしたら
四季の花々、雪景色、山、河、海・・・
この星のちいさないのちたちが
いっしょうけんめい生きる一瞬一瞬のかがやきを
いとおしくそのレンズは見つめつづけた
彼にとって描くという行為は
この星で共に生きるかけがえのない小さないのちたちを
抱きしめることだった

1988年の秋だったと思います。吉田たろうさんから電話をいただきました。その年、豊能障害者労働センターはカレンダー「季節のモムたち」を通信販売で売ることを決めました。
それまでは応援してくれる数少ないひとたちや団体にカレンダーを預け、そのひとたちに販売をお願いすることがほとんどでした。「もっと知らないひとたちにこのカレンダーを届けたい。このカレンダーを通して、わたしたちの活動を伝えたい」と、書籍販売用の学校や個人の名簿、地域で運営していたお店のお客さんなど、豊能障害者労働センターとかかわりのある方々に、カレンダー特集号の機関紙「積木」を発送しました。
レイアウトの工夫もなく印刷も汚れていてみすぼらしいものでしたが、伝えたいことははっきりしていました。このカレンダーを必死に売ることで年末資金をつくりたい。「障害のあるひともないひとも共に生きる社会は、ちいさないのちのかがやきを大切にする社会なのだ」と教えてくれる小さな妖精モムのメッセージを、ひとりでも多くの方々に届けたいと思いました。
吉田たろうさんはその機関紙を読んで電話してくれたのでした。「あなたたちの必死さにとても感激した」と…。
また、この年から「積木」の読者の方々に電話で注文をとることもはじめました。1982年設立以来、限られた人々に支えられることでしか活動できていないことに気づき、わたしたちは一般の事業者がしのぎを削って事業されている現場に躍り出て、わたしたちの思いを伝えようと考えたのです。
この時から、楽しいこともしんどいこともみんなで分かち合おうと、障害者スタッフも電話かけを始めました。その中には言語障害を持つ人もいて最初は唐突な電話でびっくりされましたが、その内にお客さんの方もそれが普通と感じてくれるようになりました。
設立して6年、ようやく豊能障害者労働センターが旧来の「福祉」の枠組みから大きくはみ出し、市民の暮らしのただ中で活動するきっかけをつくったのがカレンダー事業でした。その経験の積み重ねが、後のリサイクル事業のように障害当事者スタッフが何から何まで切り盛りするようになっていったのだと思います。

2003年10月15日のことでした。カレンダーのイラストレーターである前に、牧口一二さんや河野秀忠さんなど数多くの先輩のひとりだった吉田たろうさんの死はほんとうに悲しかった。20世紀の夕暮れから21世紀の夜明けへと、歴史はより多くの血と涙で染まってしまった。未来そのものである子どもたちの命すら危機に瀕し、そのひとみにはかなしみと恨みが満ち溢れている。わたしたちはこれからもまだまだ殺伐とした暗い河をわたらなければならないのかも知れない…。
しかしながらその同じ時代を、吉田たろうさんの想像力の森で生まれた小さな妖精・モムたちは、「共に生きる世界」を夢みるひとびとの心の中で育てられ、生きてきたのだと思います。それは吉田たろうさんにとってもわたしたちにとっても途方もなくせつない夢でした。その夢はいまだに実現してはいないけれど、少なくともその夢を共に見るたくさんのひとたちとこのカレンダーによって出会い、つながってきたことだけは真実でした。吉田たろうさんがモムたちにたくしたメッセージは、残されたわたしたちの宝物でした。

こんなにも深く子どもを愛し、小さないのちを愛し、平和な世界を願ったひとりのイラストレーターがたしかにいた。そして、彼が描くモムたちを愛してくださり、共に育ててくださった全国のたくさんの方々がたしかにいた。わたしたちはそのことを決してわすれない。ありがとう、さようなら、吉田たろうさん、そしてモムたち。

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