立石モトさんは箕面のローザ・ルクセンブルクでした。

箕面でお世話になった立石モトさんが亡くなられ、 12月16日の通夜と17日の葬儀に行きました。今年103歳、来年2月には104歳になられるところでしたが、天寿をまっとうされました。
立石さんとの出会いは豊能障害者労働センターが設立された1982年で、その時すでに71歳でした。立石さんのことはわたしたちが能勢に引っ越した2011年の夏、転居のお知らせを兼ねて暑中見舞いを出したところ、自筆のはがきをいただきました。そのことをこのブログでも書きました。

豊能障害者労働センターが設立された前年の1981年は国際障害者年で、どこの町の役所にも「障害者の完全参加と平等」という垂れ幕がぶらさがり、若者に限らずボランティア活動がさかんとなり、また国も都道府県も市町村もその活動を後押しする施策がすすめられていました。
豊能障害者労働センターはそんな時代の機運の中で、その翌年の1982年に設立されました。と言っても「設立」というのとはほど遠い出発で、車いすを利用する障害者2人が移動もできず、障害者用のトイレもありませんでした。それどころか、阪急箕面線桜井駅の裏に借りた事務所はその頃で築30年の民家で、簡単な修復はしたものの玄関の戸もレールがさび付いて開かず、台所の床は腐ってぶよぶよの所がある状態でした。
設立当初は粉石けんを袋詰めして配達販売していて、脳性まひの2人の障害者をふくむ5人のスタッフが体中せっけん粉をかぶり、真っ白になって袋詰めをしていました。その後、風呂に入るのですが、風呂も一時代前の風呂で、ヘルパーなど公的な介護保障はまったくなく、2人の男のスタッフが男の障害者2人を一人ずつ風呂介護をしていたようです。障害者にとっても介護者にとってもとてもきびしい環境で、おまけにほとんどお金にならず事業所としては成り立たない状態で、毎週日曜日に梅田での街頭募金活動でなんとかその日その日を食いつないでいました。
しかしながら、その頃の労働センターはのどかでゆっくりしていて、わたしが事務所を訪ねるとそこだけ時間が止まっているようでした。なによりも2人の障害者が底抜けに明るく、いつも笑いの絶えない事務所でした。それから後、障害者の人数がふえつづけ、そんな神話の世界のような静かな設立当初とは様変わりにけたたましく忙しく、全員の給料をつくりだすために爆発的に事業を拡げ増やしながら、箕面市行政に障害者がひとりの市民として暮らしていける制度を要望しつづけることになるですが、始まった頃はその前段階のまどろむ時に抱かれていたのでした。
そして、現在の労働センターの障害者スタッフが言いたい人は言い、黙りたい人はだまり、限りなく自由で楽天的なのは、どんなに忙しくなっても設立当初からの伝統と言うか理念と言うか、障害者あっての労働センターであることが受け継がれてきた結果なのだと思います。

まわりを見渡すと、国際障害者年の「完全参加と平等」は、努力する障害者をあたたかく見守る「完全参加と平等」にすり替えられ、サポートを必要とする障害者は家族と同居をつづけるか居住施設に行くしかないという現実は変わらないばかりか、施設を増やしてほしいという親たちの要望が大きく取り上げられるという、国連障害者の10年の採択とはまったくちがう方向に進みかねない現実がありました。ボランティア活動も、施設での活動や障害者の親の負担を減らすための活動、そして障害のあるこどもたちと楽しく遊ぶレクリエーション活動がほとんどだったと記憶しています。
豊能障害者労働センターがめざしていた「障害者の自立」は理想とされ、まわりの障害者の親たちやボランティアのひとたちなど福祉関係者にとどまらず、行政自体もまともに受け止めてはくれませんでした。そんな中でも、豊能障害者労働センターはボランティアが集まる会議に参加し、昼ごはんづくりのボランティアを引き受けてくれるひとたちもいました。その中のひとりが立石モトさんでした。
ある時、どこの町にもできはじめたボランティアビューロー(ボランティア協議会)を箕面でもつくろうということになり、時の行政も乗り気で専従スタッフの給料を助成することになりました。
その専従スタッフの採用を検討する会議で、周りのボランティアのひとたちが「市民がそのひとの魅力に吸い寄せられるような強力なリーダーシップを持つ健全者」を推したのに対して、豊能障害者労働センターは「障害のちがいも乗り越えて、障害者の多様なニーズをもっともわかる障害者を採用するべきだと主張しました。
何回も議論されましたが、最終的には多数決により豊能障害者労働センターの提案は退けられました。そして、事はそれだけにおさまらず、かねてより障害者の問題は町の問題、社会の問題であると考える豊能障害者労働センターと相いれないと感じていたまわりのひとたちが一斉に豊能障害者労働センターを「反社会的でこわい過激派集団」とバッシングするようになりました。それまで曲がりなりにも福祉団体(?)として昼ごはんづくりに協力してくれていたひとたちも「あそことはかかわらない方がいい」といいという根回しのもとに、みんないなくなってしまいました。
その時、立石さんひとりが「わたしはごはんづくりをつづける」と言ってくれました。他のボランティアのひとたちが障害者のまわりの健全者しか見ないのに、彼女一人だけが「わたしは梶さんと小泉さんと友だちだから、ご飯づくりをつづけます」と言ってくれたのでした。後から、まわりのひとから止められても、「わたしは労働センターが正しいと思うから応援します」と言ってくださっていたと聞き、わたしたちは号泣しました。
あのとき、どれだけわたしたちは立石さんから勇気をもらったことか。木枯らしが吹きすさぶ破れガラスに身をさらしながら、それでもわたしたちが信念を曲げず、思いをひろげていくたたかいができたのは、立石さんが背中を押してくれたからでした。立石さんのその一言がなかったら、豊能障害者労働センターはその後につづく過酷なたたかいをつづけられなかったとわたしは断言できます。そしてそのたたかいは曲がりなりにも障害者版社会的企業として箕面市が認知し、「障害者事業所制度」へと実を結ぶことになったのでした。
労働センターが大衆食堂「キャベツ畑」を運営するようになり、昼ごはんを自前でまかなうようになってからは、毎年豊能障害者労働センターの春のバザーでの200人分のカレーを仲間の方々とつくって下さました。そしてご自身が無理になってくると立石さんのご家族の方を中心に今でもまかないのカレーをつくってくださっています。
豊能障害者労働センターとのかかわりだけでなく、いろいろなボランティア活動をされた立石さんですが、単なるボランティア活動にとどまらない、立石さんの底抜けにやさしいまなざしの奥に、はげしく深い情熱を感じていました。それはちょうど、ドイツの革命家ローザ・ルクセンブルクのやさしいまなざしや、氾アジア窮民革命に夢をたくした竹中労が、虐げられ命までも奪われたひとびとの一粒の涙からたたかいを始めたことと通じるものを感じざるを得ないのです。
立石モトさん、70歳をすぎてからも103歳の最後の瞬間まで、わたしたちに勇気を、生きる勇気を、たたかう勇気を惜しみなく注いでくれたあなたは、箕面の、わたしたちのローザ・ルクセンブルクでした。わたしたちは立石さんの熱い思いと強い情熱を受け継ぎたいと思います。
ほんとうに、最後の瞬間まで、豊能障害者労働センターを愛してくれて、ありがとうございました。
ご冥福を心よりお祈りします。

立石モトさんは箕面のローザ・ルクセンブルクでした。” に対して4件のコメントがあります。

  1. TARK5 より:

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    tunehiko様 こんばんは

    叉一つ私の知らない世界を見せていただき
    ありがとうございました。

    ファイト 初めて聴きました。
    真夜中に聴いていると色んな事が
    頭を駆け巡りました。
    私はたたかわない奴らの一人でした。

    今更ながらですが、歌の力って
    スゴいですネェ

    立石モトさんに
    遠くから 合掌

  2. TARK5 より:

    SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    tunehiko様

    私反省しております。夜中に思わずコメントしてしまいましたが
    コメントしたらメール到着音が鳴ったりして
    迷惑をお掛けしたのではないかと・・・・・・
    以後、気をつけます。
    申し訳ございませんでした。

  3. tunehiko より:

    SECRET: 0
    PASS: 04e60c26645b9de1ec72db091b68ec29
    TARK5様
    さっそくのコメントありがとうございました。また、豊能障害者労働センターのカレンダーを買っていただき、ありがとうございました。
    これからたぶん、豊能障害者ろうどうセンターの機関紙「積木」が届けられると思いますが、以前はこの機関誌を通じていまブログで書いているようなことの中で障害者問題とかかわることを書いていました。
    来年の6月ごろになると思いますが、わたしがいま働いている被災障害者支援「ゆめ風基金」の20年記念コンサート「小室等、坂田明、林英哲」のことについて原稿を頼まれていまして、実名の署名記事で書くことになっています。
    今年は後半、思いがけずTARK5様と出会い、このブログをつづけてきてよかったと思っています。来年もよろしくお願いします。

    わたしは70年安保の世代ですが、政治活動などのいわゆる「たたかい」とは無縁の若者?でした。
    しかしながら、障害者の友だちと出会ったことで、「生きること」そのものが「たたかい」であることを教えてもらいました。
    中島みゆきの「ファイト!」や「世情」、「エレーン」、「異国」など70年代の歌には、市井のひとびとのせつない「たたかい」を歌った歌が多くあります。
    また、島津亜矢とのかかわりで中島みゆきについて書こうと思っています。

  4. TARK5 より:

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    tunehiko様
    >「小室等、坂田明、林英哲」のことについて原稿を頼まれていまして、実名の署名記事で書くことになっています。

    >島津亜矢とのかかわりで中島みゆきについて書こうと思っています。

    とても楽しみにしています(笑)

    色々なたたかいがありますネ

    私は今年はとても良い年でした
    その辺の事を自分のBLOGに近々書こうと思っています。

    一期一会

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