稲葉振一郎・立岩真也「所有と国家のゆくえ」

稲葉振一郎・立岩真也「所有と国家のゆくえ」を読みました。この本が出版されたのは2006年だったと思うのですが、わたしが時々参加していた小さな集まりに立岩さんがお話をされた時に購入したものです。その時に一度読んではいたのですが、よくわからないままでした。
今回、引っ越しの時にこの本を発見し、もう一度挑戦しようと2回読んだのですが、やっぱり理解できないところが多々あります。しかしながら、もともとわたしが豊能障害者労働センターの運動に参加することで、ずっと考えてきたことがこの二人によって議論されていることにはまちがいがなく、なにか感じたことを書いてみようと思いました。

この本が出版された2006年は新自由主義が闊歩していた時で、障害者問題では自立支援法がはじまった年でもあり、また国連総会で障害者権利条約が採択された年でもあります。
社会保障や福祉に多くの税金を投入する「大きな政府」から、国際競争力に負けないために企業の税負担を少なくし、聖域とされた福祉にも自己負担、自己責任をせまる「小さな政府」へと転換しなければならないとされていた時代でした。
この本では立岩氏が「分配する最小国家」といい、稲葉氏が「ケインズ主義的最小国家」という言い方で、「大きな政府」でも「小さな政府」でもない国家のあり方が議論されています。
まずはじめに、資本主義の基盤である「市場」を抜きにしてはわたしたちの暮らしが成り立たないことは認めざるをえないのですが、市場が成立するためには市場に参加するひとみんなが手持ちのものを所有していなければならない。市場なき所有はありうるけれど、所有のない市場はないと、あらためて原則を教えてもらいました。
そして、話はその「所有」のあり方へと進みます。自分がつくったものは自分のものとする大半の主張とは反対に、それが自分のものといえるのは他者のものではないことをまず確認しなければならないと考える「所有」のあり方を立岩さんが提案されています。
この時点で、新自由主義経済をよしとするひとだけでなく、労働したり経済活動をすることで自分のものを獲得すると考える大方のひとが納得できないと思われるかもしれません。ただ、この考え方はかつての社会主義国家における、すべてのものは「みんなのもの」と強制されることとはちがいます。
立岩さんは障害者の生きる権利を社会のなかでどのように位置づけられるべきかと研究を続けてきたひとです。 みずから「生産」をすることができないとみなされてきた重度の障害者たちが、なんの負い目もなくまっとうに生きていける社会。そういう社会を構想したいという立岩さんの思いがここにはあります。
そこから話は「所有の分配」「国家の役割」「機会の平等か結果の平等か」「富の再分配か成長による富の増大か」へと進みます。
「たくさんできるひとがたくさんとれて、少ししかできないひとが少ししか取れなくて、全然できないひとが全然取れない社会よりも、だいたい暮らすために必要なものをみんなが一人一人受け取れた方がいいなと思っていて、今でも基本的にそうなんです。」(立岩)
この考え方は賛否わかれると思いますし、おそらく否定的な意見の方が多いことでしょう。立岩さんもそれはよくわかっていて、この人はここで言いきるのではなく、その反対の意見を取り入れてなお、そういう社会がいいと論じて行くので、賛成のひともどこかすっきりせず、反対のひとはますます反対となるところはあると思います。
ふたりの対談は、そういう社会がありうるのか、ありうるとすればどんな了解とシステムを必要とするのかを模索します。
一生懸命働いているひとがその労働によって生みだした物やお金を、働けないひと、働かないひとにその一部を分配することを納得することは難しいですから、やはり国家が税金を集め、分配するという役割を持つことになるでしょう。それはいわゆる「結果の平等」になるのですが、それではなく、働けないひとに働く機会を用意したりすることで「機会の平等」を保障するだけでよく、そこから後は本人の努力や自己責任にゆだねることで、結果的に不平等があってもしかたがないという考え方も多くあります。
さらに、一生懸命働いた人が充分の見返りを得て、少しぐらい貧しいひとに分配してもかまわないと思うには、経済が成長して富が増えて行くことが必要だという考えもあります。
また、国家は必要とする役割をはたさない場合もある以上に、必要とされない役割を増やし、その権力が国民の意識までも支配してしまいます。それをつきつめてしまったミシェル・フーコーの言葉で言えば「主体は権力によって生産される」ので、人々が願う願い、正義、欲望、自由、価値といったものは先見的にあるのではなく、すでにその社会の権力システムによってつくられたものだということになります。
わたしも実はフーコーの権力論にたどりつき、反権力とか自由とか抵抗とか主体性とかを素直に受け入れることができなくなり、出口のない袋小路にはいってしまったような経験をしましたが、二人の議論は権力システムによって皮膚の先までつくられているからこそ、権力のシステム、社会のあり方をよく知ることができて、それを変革することもできると進んでいきます。
ここから、わたしの関心から二人の議論について考え、豊能障害者労働センターの活動について考えてみたいのですが、長くなるので次回につづきます。

積木屋・豊能障害者労働センター

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