世界の果てはわたしたちの夢の中にある。豊能障害者労働センター「積木」300号。

わたしが在職していた豊能障害者労働センターから、機関紙「積木」が300号を迎えるにあたり、一文を寄せてほしいと依頼がありました。
退職してから17年がたち、その後も現在に至るまでリサイクルの衣料や雑貨をいただいたり、去年まで開いてきた「ピースマーケット・のせ」に協賛していただいたりと、何かと世話になっているものの、はるか遠く現場を離れたわたしに声をかけてくれた「積木」編集部と豊能障害者労働センターに感謝します。
わたしにとって「積木」は豊能障害者労働センターの機関紙というだけでなく、障害者の問題をはじめとするさまざまな出来事について語り、書いてくれるひとを探し、文章を寄せてもらうことでどれだけ幅ひろい読者を持てるかという「メディア」としての冒険の場でした。また、自分自身も文章を書くことで世の中に発信することを学び、育ててくれたのも「積木」でした。今もまがりなりに言葉を紡ぐことの楽しさや苦しさを味わえるのも「積木」のおかげで、それを許してくれた豊能障害者労働センターにあらためて感謝します。
300号と聞き、そのうちの約半分を「積木」と格闘した様々なことを思い出し、胸がいっぱいになるのですが、とにもかくにも「ありがとう」と、竹中労がよく言っていた「イエローストリート・ジャーナリズム」の旗手として、これからの「積木」の活躍を期待しています。
積木300号に寄せた一文です。

時のランプをかざしながら
豊能障害者労働センター機関紙「積木」300号を祝う

1982年、豊能障害者労働センターは一人の少年の「どこにもいくところあらへん」という叫びを受け止め、障害のある人もない人も給料を分け合い、生きる場をつくろうと箕面市桜井の民家を拠点に静かな出発をしました。その38年に及ぶ労働センターの歴史は理不尽な差別と絶望を乗り越え、ほこりまみれの希望と切ない夢に彩られたものでした。
「積木」はその格闘の日々の目撃者でもあり、遠くでうずくまる同時代のまだ見ぬ友の悲鳴を聞き逃さず、たった一粒の涙もむだにしない未来からの使者でもありました。
わたしは開所当時より運営委員として、さらに1987年から2003年までの専従スタッフ在職期間を通じて21年間、「積木」の編集に関わらせていただきました。振り返ると「積木」の編集にかかわれた時間はかけがえのない宝物で、わたしの誇りでもあります。
「積木」にまつわる笑い話がたくさんあります。そのうちのひとつとして開所当初は機関紙の発行が遅れがちで、ある年などは初代代表の河野秀忠さんの年頭所感が6月になってしまい、「6月に年頭所感というのもなぁ」とため息をつかれたことを覚えています。
それでも「誰のために養護学校はあるのか」という特集や、箕面市庁内の部落差別落書き事件に抗議する署名を呼びかけると、読者から大きな反響があったことを思い出します。

●世界の果てはわたしたちの夢の中にある
1988年、わたしたちはカレンダーの通信販売を始めました。もともと事務所で何か仕事をつくりだす必要に迫られ、オリジナル事業を展開し、「積木」で発信しようと考えました。その少し前に、障害者の働く場・生きる場をつくろうとする団体が集まって「障害者労働センター連絡会」を結成し、カレンダーの共同制作を始めていました。通信販売の実績は全くない中、障害のある子もない子も共に学ぶ教育のための「障害児教育自主教材」と一緒に、全国の学校の人権教育担当の先生にお願い文を添えて積木特集号を送りました。
また、朝日、毎日、サンケイ、読売だけでなく、全国の地方新聞もカレンダーのことを掲載してくれました。障害者を保護、管理、訓練する福祉ではなく、障害のあるひともないひとも給料を分け合う労働センターそのものに強い関心を持ってくれました。
そして、1995年の阪神淡路大震災がわたしたちの活動を大きく変貌させました。被災した障害者が取り残される現実を前にして、後に被災障害者支援・ゆめ風基金につづく障害者救援本部が立ち上がり、豊能障害者労働センターは救援物資の拠点となりました。
「積木」で救援金を呼びかけると全国から600万円の救援金が送られ、救援バザーの売り上げ400万円とあわせて1000万円を救援本部に届けることができました。
これをきっかけにリサイクル事業が立ち上がり、今では大衆食堂「キャベツ畑」以外のすべての店がリサイクルショップになり、地域での商品の回収、全国から送られる品物の値段付け、各お店での販売と、障害者スタッフがすべてを担う大事業になりました。
1998年からは、「積木」が発信する春夏の事業として、Tシャツの制作販売をはじめました。この年にTシャツに込めたメッセージは「プラスWe」で、「違うことこそ力」というサブメッセージも加え、脳性まひの現代表・小泉祥一さんが描く渾身のロゴTシャツ・「プラスWe」は大ヒットし、翌年のゆめ風基金のイベントに出演された筑紫哲也さんが「『積木』でこのTシャツを見て感動したんだよ」と、ステージで着てくださいました。
さらに2001年のアメリカ同時多発テロとアフガニスタン爆撃とイラク戦争、東日本大震災など世界各地の理不尽な仕打ちと悲惨な現実を前に、豊能障害者労働センターの活動もまた世界各地で眠れぬ夜に身を隠す子どもたちの悲鳴と共にあることを実感しました。

●わたしたちのロンググッドバイ
それらの日常活動から救援活動に追われるスタッフを見守り、時代の予感に心を傾け、水先案内の役目を果たしてきた「積木」は、豊能障害者労働センター機関紙という枠組みを越えた「希望と再生のメデイア」としてこれからも多くの人々に愛されることでしょう。
それを予感していたのは一昨年に亡くなった初代代表の河野秀忠さんでした。彼ほど「積木」を愛してくれたひとはいなかったかも知れません。河野さんは目線を遠く伸ばし、日本社会から世界にまで視野を広げ、障害者問題の普遍的な意味を伝えようとしました。
彼は1990年の「積木」年頭所感で、1989年11月、ベルリンの壁が市民の手によって壊され、共産主義国家が次々と崩壊し、「共産主義VS民主化」という構図で世界が歓喜に包まれたその時に、ベルリンの壁をハンマーで壊す市民が手にする自由が、同時に障害者を差別してきた暗い歴史をも内包していると鋭く指摘しました。
わたしはこの文章を読むたびに、豊能障害者労働センターも、そして退職してから17年が過ぎたわたしも、まだ河野秀忠さんの遺産の中にいるのかも知れないと思うのです。
しかしながら、障害者がすべての事業に参加、「積木」の印刷から発送まですべてを担い、被災地と国際NGOをつなぎ、障害者が入力できる受注販売システムの開発をすすめるなど、たゆまず進化する豊能障害者労働センターと「積木」が、河野秀忠さんの遺産から一歩も二歩も踏み出し、未来の重い扉を開く時がすぐそこに来ていることを実感します。

細谷 常彦(ほそたに つねひこ)
ホップ・ステップ・のせ代表
1947年生まれ。73歳。
1987年から2003年まで、豊能障害者労働センターに在職。
2011年から2015年まで、被災障害者支援「ゆめ風基金」にアルバイト勤務。
2016年より大阪府能勢町の住民有志と「ピースマーケット・のせ」実行委員会に参加。

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