助け合う勇気が新しい国家を未来する。 豊能障害者労働センターの慰安旅行

少し前になりますが、6月8日、9日、豊能障害者労働センターの慰安旅行に誘っていただき、神戸の「しあわせの村」に行きました。
退職して16年も経つのに今でも誘ってくれる豊能障害者労働センターに感謝しかなく、少し気後れするところもあるのですが、みんなの好意に甘えて参加させていただきました。
16年も経てば、わたしが活動していた頃の人もいるものの、新しい人たちがほとんどです。この集団はいわゆる健全者はほとんど変わらず、障害者スタッフがどんどん入ってきて、現在障害のある人約40人を含めて約60人が活動しています。
一般の会社なら最近はやった映画「終わった人」ではありませんが、10年ひと昔のごとく、やめた会社に出入りすることはないと思うのですが、障害者運動を担う労働センターの場合は専従スタツフをやめても年に一度の大バザーの手伝いをしたり、機関紙の発送作業を手伝ったりする人も多く、わたしもそのひとりです。
新しいスタツフはほとんど障害者で、彼女彼らはほんとうに屈託がなく、めったにセンターに顔を出さないわたしにも実にやさしい声をかけてくれるのでした。
労働センターの障害者スタッフは1982年の設立当時からのベテランから新人まで、「障害」というそれぞれの個性を十二分に発揮し、ベテランへの気遣いや新人への心配りをしながら対等に「助け合う」ことが日常になっていて、昔わたしや前代表の河野さんの口癖だった、「来るもの拒まず、去る者追わず」といった運営方針が理念をこえて彼女彼らの日常の行動指針になっているのでした。
その根本には多岐にわたって自己責任論が声高に求められる今の時代に逆らい、圧倒的に他人を信じ、自分を信じ、他者(友人、仲間)に依存することでひとりひとりの人生を肯定し、助け合ってともに生きる勇気を持つという思想があります。
労働センターの慰安旅行は創設時からあり、最初の旅行は障害者2人、健全者3人のスタッフと周りの支援者を入れてせいぜい15人ほどの旅行でしたから、能勢農場や部落解放同盟北芝支部のマイクロバスを借り、河野さんが運転し、運営委員の浜辺さんの世話で全電通の白浜保養所に一泊しました。それからも毎年近辺の観光地に行きましたが、とにかくトイレを探すのが一番の目的でした。その頃は労働センターにもそれぞれ個人にもお金と言うものがなく、有料の観光施設に入ったことはなく、宿泊所で酒を飲むのだけが楽しみでした。もちろんカラオケもなく、みんなアカペラで歌い、さわいだものでした。
結構長い間、脳性まひの小泉さんも梶さんも屈強な若者(私もまだその若者のひとりでした)が交代で抱っこしてバスの乗り降りをしたものですが、それが今ではどうでしょう、リフト付きの最新のバスで運転手さんの操作で乗り降りでき、それぞれに「箕面市障害者の生活と労働推進協議会」からは派遣されたヘルパーさんが同行し、カラオケ設備も充実しているれっきとした観光旅館に泊まることができるようになりました。まさしく、イリイチの名言どおり、貧困もまた近代化したのだとつくづく実感します。
そして、発足当時と今との決定的な違いは、旅行の計画から当日の段取りやアナウンスまで、障害者スタッフ数名の幹事さんたちが世話してくれることや、カラオケもまた障害者スタッフが歌いまくるのですが、もちろん演歌などはほぼなく、AKBなどのJポップとアニメソングで、わたしなどにはさっぱりわからない歌ばかりなのです。
豊能障害者労働センターは一般的な障害者作業所のようにサービスを提供する健全者スタッフとサービスを利用する障害者のように内部的にも外部的にも別れていません。
一般的な福祉作業所などではサービスを利用する障害者は「労働者」ではなく、給料ではなく「工賃」としていくばくかのお金が支払われます。
箕面市独自の制度を利用した事業所である労働センターの場合はリサイクルや通信販売、大衆食堂などの事業で得たお金と市独自の助成金を合わせたお金を障害者も健全者もみんなで分け合っています。
昨今、国が障害者の就労を水増ししていたことが発覚し、国は障害者手帳の有無を厳格にし、障害者雇用を増やしました。そのことで軽度と言われる障害者の雇用が進んだことは評価できるのでしょうが、豊能障害者労働センターの場合は一般企業や行政機関への就労を拒まれる障害者、一般企業が雇わない重度と言われる障害者、働くことは無理とされ、福祉サービスを受けるだけと言われる障害者の就労を実現しています。
福祉作業所でせいぜい2万円程度の工賃しか得られない障害者が、労働センターでは親元から通う人で9万円、自立した人で12万円の給料が得られるわけは、年間1億円の売り上げがある事業収益と、健全者の給料が指導員と言われる作業所の健全者より格段に低く、自立する障害者の給料と同程度だからです。「共に助け合う」と言われますが、開所した時の赤貧状態の時も、事業所として成り立っている現在も、お金をみんなのお金として分け合うことが労働センターの障害者と健全者の対等性を担保しているのです。
全国でもあまり例のない運営を約40年も続けてきた結果、障害者は自分自身を「労働者」と自覚することを通り越して、「経営者」として日常的に傾きがちな労働センターの経営を担うようになりました。この「経営を担う」という考えは一般企業の労働者と比べてもよりスキルが高いと言えるのではないでしょうか。しかも、労働センターの障害者は事業を通して箕面市内での露出度は高く、一億円を売り上げる事業は市民が買い手であるだけでなく、その事業に参加することによって成り立つ市民事業にまで成長しました。

そんな労働センターの活動は事務所を含め4つのリサイクル店と食堂、それに移動販売と各所に別れていて日常ではわからないのですが、年に一度の慰安旅行の時にその全貌が現れます。事業と経営を障害者自身が担うという、彼女彼らにとって当たり前の日常はそのまま、「旅行」という事業をプロデュースすることになり、だれひとり取り残されないそのプロデュース力は素晴らしいもので、彼女彼らに任せればはっきり言ってそんなに豪華な旅行でなくても、飛び切り楽しい特別の時間に変貌するのでした。
ひとりひとりの障害者が旅行と言うサービスの利用者にとどまらず、幹事だけに任さず全員が年に一度の大事業を最後まで事故の起こらないように助け合う姿は、4割を超す非正規労働者の切ない権利を踏みにじり、移民として日本社会に迎え入れないで外国人労働者を使い捨てしようとする国に抗して、国家・集団・組織運営の未来の在り方への究極の提案の一つと言えるのではないでしょうか。
そんなことを感じながら、こんないとおしいひとたちがいるかぎり地域社会も国家もまだ捨てたものでもないなと勇気をもらった旅行でした。
こんな素敵な体験をプレゼントしてくれた豊能障害者労働センターのみなさん、ありがとうございました。

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