想い出よありがとう

想い出よ ありがとう
やっと今 そう云える私
数え切れない 昨日に
それぞれの 心をこめて
島津亜矢「想い出よありがとう」(作詞・阿久悠)

1995年の阪神淡路大震災とオーム真理教の事件は、ちょうどバブルの崩壊と重なり、「今日よりは明日、今年よりは来年」という淡い期待によって成り立っていた未来予想を壊してしまいました。
50年に渡る民主主義国家のもとでの安全神話がこわれたことで安全ファシズムといえる動きが強まった一方で、今まで国や行政におまかせでやってきた街づくりを市民が担う新しい民主主義も生れることとなりました。
わたしたちの活動においてもそれは例外ではありませんでした。わたしたちの活動は他の障害者団体に理解されることが少なく、孤立することを承知していましたが、1995年の地震における救援活動を通して、運営の違いや地域をこえて助け合うことの大切さを学びました。そして障害者団体に限らず、他の市民団体や個人の方にもわたしたちの思いをより伝えたいと思うようになりました。
2000年に入り、新自由主義、市場原理主義を取り入れた小泉政権は、規制緩和、公共部門の民営化、福祉の削減など、大きな政府から小さな政府への転換をすすめました。
企業は国内では非正規雇用をふやし、さらに雇用そのものを海外に移すことでグローバル化の波に乗ろうとしましたが、その結果国民の間に少数の「勝ち組」と、多数の「負け組」をつくったこともまた事実としてあります。
わたしたちは小さな政府に反対ではありません。福祉国家が大きな政府だと言われますが、簡単に福祉の充実が大きな政府で、福祉の削減が小さな政府だと言えないと思っています。
どちらにしても福祉予算は「かわいそうなひと」、「社会の一員としての役割を担えないひと」への保護として考えられていて、そもそも障害者を「かわいそうなひと」、「社会の一員としての役割を担えないひと」ととらえる社会こそが変わらなければならないとわたしたちは主張してきたのでした。

保護することではなく、社会の一員として参加することを保障し、さまざまな個性や文化を持ったひとびとが共にになう経済システム、障害者を結局は閉じ込めてしまうために費やされる福祉政策から、真に障害者が参加し、共に働き、共に生きるための政策をわたしたちは提案してきました。その冒険のひとつが豊能障害者労働センターだと思ってます
そして、いまにいたるわたしたちの壮大な冒険から、次の10年は国レベルでも地方レベルでも、障害者が対象となり消費者になるのではなく、障害者が運営を担い、障害者がサービスを提供する社会的企業として広く理解されていくことを切望しています。
経済のグローバル化は、世界の貧困をより深刻なものにしたと言われています。その矛盾が、2001年9月11日の痛ましい事件を生んだ一つの要因であるとも言われます。
同時多発テロとアフガニスタンへの軍事行動で多くの人々が亡くなりました。そして2003年、アメリカはイラク戦争へとつきすすみました。
世界のいたましい惨状に何かしなければとあせりながらも、わたしたちはここを離れることはできませんでした。わたしたちは北大阪の小さな荒野を耕し、障害のあるひともないひとも、誰もが幸せになるための経済をつくりださなければなりませんでした。
わたしたちは平和を願う心が自立経済を生み出す活動につながることを、ガンジーから学んでいました。そこでわたしたちは、毎年開いてきたバザーを通じて平和を願う心、差別をなくす意志、非暴力の理念を伝えようと思ったのでした。

豊能障害者労働センターの物語をここまで書いてきましたが、ここからは別のひとが綴っていってもらいたい。
わたしは2003年に豊能障害者労働センターを退職しました。今はアルバイトスタッフとして、豊能障害者労働センターにかかわっていますが、そろそろ労働センターを卒業しなければと考える今日この頃です。
それはさておき、ひさしぶりに労働センターに足を踏み入れると、なつかしさよりも圧倒的におどろきの方が大きいのです。当の彼らにとってはふつうのことが稀有のことであることに、びっくりさせられます。
障害者スタッフの立ち振る舞いをみていると、つくづくこのひとたちがコミュニケーションの狩人、人生の達人だと感心してしまいます。
わたしがいた時よりもはるかに多い障害者スタッフが、わたしがいた時に夢見たことなどすでにあたりまえのように実行していて、それは、なにかができるようになったとかいうようなことではなく、ここでは、ひとりひとりが自分の個性をそのままあらわにしながら、他者への心配りを決して忘れません。
誤解を恐れずにいうなら、豊能障害者労働センターのほとんどの障害者スタッフが一般企業に就職することはまず無理なことではあるでしょう。それは、ひとつはたしかに企業のハードルを越えられない重度と言われる障害者だからといえます。けれどももうひとつは、実は彼らは自分をふくめ、この集団とその構成員をマネージする、経営することを日々他の障害者と学び合い、成長しているためなのです。
学校が本来教育するところではなく、学び合うところであるように…。
それはけっして福祉的就労の場である授産施設(B型就労継続支援事業所)でも、またおそらくは一般企業でも学べないことだと思います。
日常の中で、たとえばだれかが発作でたおれたら、われもわれもと現場にかけつける。そのうち、そんなにひとがいてもしかたがないことがわかってくると、離れた場所で心配しながら状況をみつめている。
まわりのひとがそんな彼らのことをよくわからず、いろいろな「説教」をしても、彼らはさらりと受け流し、その「おせっかい」な親切にはそれなりの礼をつくす、という案配で、それはみごとな立ち振る舞いをさらりとしてしまいます。
健全者の新人をもりたてるのにも余念がなく、スキンシップもふくめてその新人が豊能障害者労働センターの「社風」(?)に早く溶け込むようにさまざまな気配りをする。
かぞえあげたらきりがない。こんな職場だったから、わたしも働けたのだと感謝しています。

そして、かれらの活躍が縦横無尽に発揮されるのはなんといってもバザーの時でしょう。はじめてのひとが見たら、「訓練が行き届いている軍隊」とまちがい、そこから「このひとたちは一般企業で働けるのを、豊能障害者労働センターが無理やりひきとめている」と誤解の風評が立つのも不思議ではありません。
けれどもけっして忘れてはならないのは、彼らはいまある一般企業に就職できるわけではおそらくないのです。反対にこんなに生き生きと仕事ができるはずの彼らを雇用できない職場のあり方、社会のあり方の方こそ問われるべきなのだと思います。
彼らが生き生きと仕事をしているのは、さまざまなとんちんかんに心ゆすぶられながらも友情から生れる、ドラッカーなみの経営学をもってバザーを、そして豊能障害者労働センターをマネージ(経営)しているからなのです。
はたしてこんなに豊かな職場関係をもっている企業が社会的企業をふくめてあるでしょうか。いま社会的企業が注目されていますが、そこでも障害者は「お客さん」でしかないことがよくあります。
「障害者が担う」とか「障害者が運営する」というと、ほとんどのひとが「それは建前だ」と答えます。
そのひとたちに見てもらいたい。豊能障害者労働センターの障害者たちの「大活躍」を。(ただし、彼らは奥ゆかしいので、ぱっと見でだまされないようにしていただきたい。)
豊能障害者労働センターの半開きのドアをあけて中に入ると、ここはまさしく人生の宝探しの場です。
この宝の山を、わたしが独り占めするのは贅沢すぎる。もしこの文章を読んでくれたあなたとも分け合いたいと思うのですが、もう語る言葉が見つかりません。

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