阪神淡路大震災と豊能障害者労働センターと村上春樹

阪神淡路大震災から21年目の1月17日を迎えました。
その日の朝、経験したことのない大きな衝撃に目を覚ましたものの、わたしは揺れる天井をただただ眺めるだけしかできませんでした。
当時わたしは豊能障害者労働センターで働いていて、家も箕面市の近くのかなり古い平屋の家を借りて暮らしていました。娘は東京で働いていて、息子は大学生で同居していました。そのうち息子がどうなったか心配になって名前を呼ぶと、「テーブルの下にいるで。ガスの栓も閉めたから」という返事に、おろおろしているぼくとちがい、しっかりしてるなと感心しました。
そのうちに、事務所で仮住まいをしていた脳性マヒのKさんの介護者から、「食器棚が倒れた程度で大丈夫ですが、職場の学校に行かなければなりませんので後はよろしくお願いします」と電話が入りました。「わかりました。ご苦労様でした。すぐに事務所に向かいます」といったものの、余震がはげしくふとんに潜り込んでしまいました。「あんた、なにしてんねん、早よ行かなあかんやろ」と妻に叱咤激励され、ようやく事務所に行きました。
事務所に着くと、Kさんが心配そうな顔で待っていました。「おそなってごめんな」といいながら靴を脱ぐまもなく、プレハブの事務所は余震の揺れとともに、窓ガラスやかべは「ガタガタ、バリバリ」と奇妙な叫び声を上げ、そのたびに2人で「ワオー、ワオー」と叫びながら抱き合いました。
事務所の中にいると余計に恐怖心がつのるばかりなので、朝ごはんを食べに出かけました。途中、箕面市役所の窓ガラスがこわれ、散乱していました。
マクドナルドを出て事務所に戻ると、センターのみんなが少しずつ集まってきました。みんな青ざめた顔をしていました。事務所の周りの路地といっていい道路がすべて車で一杯になっていたし、電話ボックスには長蛇の列ができていました。被災地のまわりの街の風景は、おそらくどこも同じだったことでしょう。家族は、親戚は、友人は、恋人は…、安否を知りたくて日本中、場合によっては世界の果てからも被災地へと無数の心が急いでいたと思います。
テレビは信じられない崩壊の風景を映しはじめました。そのテレビの外側で、6400を越える死のカウントがはじまっていたのでした。
すでに多くのひとたちがリュックを背負い、被災地へと歩きはじめていました。
わたしたちもまた仕事どころではありませんでした。けれどもわたしたちは箕面を離れるわけには行きませんでした。特別の朝だからこそ、豊能障害者労働センターという日常活動をはじめなければいけないと思いました。と同時にまだ何の情報もないけれどわたしたちに想像できない悲惨で困難な状況になっているはずの被災地を思うと、胸が痛くなりました。やっぱりいつもと同じような日常活動なんかできるはずもなかったのでした。
その時、一枚のFAXが届きました。何度も何度もFAXの機械を通ってきたために、文字はつぶれてしまって細かいところはわからないけれど、そこにはけっしてテレビではわからなかった、被災地の障害者の安否と被害のひどさが伝わってきました。
「救援バザーをしよう」と、誰かが言いました。実はわたしたちは毎年、年の初めから約三ヶ月かけて春の大きなバザーを開いてきました。「自分たちの運営がどうとか言ってる状況じゃない。とにかく、春のバザーの売上はすべて救援金にしよう。それならこの場所から離れないで救援活動に参加できる。」
そして大阪を中心にした当時の全国的な救援組織「障害者救援本部」が結成され、わたしたちもその活動に参加することになりました。
わたしたちの救援活動は、わたしたちが一方的に誰かを助けるということではありませんでした。かろうじて被害をまぬがれたわたしたちの方こそ終わらない余震におびえ、「次は自分たちかも知れない」という恐怖におちいっていました。死のふちをくぐりぬけてきた被災地の障害者のメッセージは明確でした。一瞬のうちに無数の命がうばわれ、無数の家と無数の生活がこわれてしまった。だからこそ被災地の復興は、共に生きる社会への再生でなければならないのだと。救援活動を通してわたしたち自身の街のあり方、社会のあり方を考えました。
それからの約二ヶ月の間、毎朝わたしたちのプレハブの事務所は全国から届けられる救援物資とバザー用品で一杯になりました。全国の障害者運動団体からは救援本部のよびかけに応えて救援物資が届けられ、豊能障害者労働センターの機関紙「積木」の読者からはバザー用品をいただきました。
公的な機関の場合は送料がいらないが、自主的な救援活動の場合は送料がかかる。それでも1人の人がダンボール箱三つも四つも送ってくださり、その中には救援金とともに心のこもった手紙が添えられていました。中でもおどろいたのは、被災地の方々から多くのバザー用品が送られてきたことでした。差出住所が避難所だったこともありました。「地震以後、朝のあいさつは『あんた生きとったか?』です。手をにぎりあって、無事を喜んでいます。あの朝、使わんものが棚からいっぱい落ちてきました。もういのちだけでけっこうや。ここではバザーもまだでけへんやろから、そちらで金に換えてここの障害者のために使うてな。わたしらがこんなに困ってるんやから、障害者は大変やと思う。」みんなで読んで、泣きました。毎朝こんな言葉をいっぱいもらって勇気をもらい、わたしたちは救援物資を被災地の障害者に届ける一方で、バザー用品の仕分けをつづけました、いつのまにか、ぼくたちの回りにはいつも二、三十人のボランティアの方々が来てくださり、バザー用品の置き場所は箕面市が事務所の裏にあった古いプレハブを提供してくれました。

「売上げなんぼあると思う?」
知的障害といわれる仲間のHさんがわたしに話しかけました。「どうかなぁ」と、ぼんやり答えるぼくに、「1億円あると思うねん。」とHさんは目を真っ赤にして言いました。あの時、彼の1億円はきっと、障害者をふくむ被災地のすべての人々に届けたいというありったけの気持ちだったのだろう。過酷な状況とたたかっている被災地の障害者とつながろうとする気持ちが、1億円のバザーを夢見たのだと思います。その1億円は救援本部全体の救援金総額として現実のものになったのでした。
阪神淡路大震災から21年、東日本大震災と同時多発テロ、そして戦争と、わたしたちも世界もこの地球も悲鳴を絶やすことがありません。そして多くの命、幼い命までもが傷つき、息絶えていく過酷な現実がこの世界を覆っています。
けれどもその一方で、この21年は絶望を語るだけではなかったと信じたい心があります。いろいろな民族、文化、個性が助け合い、共に生きる勇気を育てる社会。武器を持たなければ食べ物を得られない悲惨から子どもたちを解放する平和な社会。世界のどこで生まれても「しあわせになる権利」を子どもたちに手渡せる社会。理想といわれても夢といわれても、そんな夢みる社会への希望をたがやす世界の人々のたゆまぬ努力もまた、この21年につめこまれているはずなのだと…。
わたしたちはあの寒い朝以後、2つの時を生きているのだと思います。止まってしまった時と激しく刻み始めた21年の時。2つの時がひとつになるのには、もっと多くの時を必要としているのだと思います。

村上春樹の六編の連作短編小説「神の子どもたちはみな踊る」のひとつに「アイロンのある風景」という小説があります。家出して海岸の街に住み着いた若い女と、大学を卒業する見込みも意志もなくバンドをつづける同居人の若い男、妻と子どもを阪神地区に残して漂流した果てにたどり着いた海岸で焚き火をし続ける中年の画家。
冬の夜、孤独という言葉では語れない大きな何かをそこなった心は、死の予感と生きることの空虚感に包まれています。焚き火は、それをしつづけなければ生きることもつながることもできない切実な儀式となっています。「火が消えるまで眠ろう。目がさめたら死のう」という会話は、反対に焚き火が終わればいや応なく寒さで目をさまし、この現実を引き受けてそれぞれが生きていくしかないという静かな決意にも聞こえます。
阪神大震災の時、公園や学校などの避難所ではどこでも焚き火をしていました。6400人以上のかけがえのないいのちがうばわれ、あたり一面が瓦礫の荒野となってしまったその地で凍てつく冬の夜を照らす焚き火は、体をあたためることや灯りをとることや炊き出しをするためだけに必要だったのではありません。多くの証言が語るように焚き火は被災地のひとびとの心をあたため、癒してくれたのだと思います。
余震の恐怖、肉親や恋人、友人を失った無念、生き残ったがゆえにおそいかかる死の予感…。廃材といっしょに何度も何度もそれらをドラム缶の中に投げ込み、ひとびとは焚き火をしつづけたのでした。それは6400を超えるたましいを見送る儀式でもありましたが、それと同時に生き残ったひとびとが助け合って生きる以外に道はないことを教えてくれる、だれもが必要とした道しるべでもあったのだと思います。

やがて悲しみは希望にかわり 新しい星が生まれます
生まれたての星はまだ 光ることができません
だから星は焚き火をして 光る練習をするのです
今夜もほら、あんなに赤く 星がにじんでいます

阪神淡路大震災と豊能障害者労働センターと村上春樹” に対して2件のコメントがあります。

  1. S.N より:

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    tunehiko 様
    今年もどうぞよろしくお願いします。
    今日もいい記事をありがとうございました。
    私は、今日姪に赤ちゃんができたので、お祝いに行ってきました。
    私にはまだ、孫がいませんが生まれたての赤ん坊を抱かせてもらいました。
    その時に、本当に幸せな気持ちに包まれました。
    ほんの少しでも、この世界がよくなるように祈り、そして生きたいと思いました。

  2. tunehiko より:

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    S.N様
    昨年はお話しできて、楽しかったです。今年もよろしくおねがいします。
    昨年の12月から一月初めまで、島津亜矢さんの紅白関連でこのブロクも大層にぎわいました。
    今年からは年金生活となり、以前の様には行きませんが、座長公演は行こうと思ています。

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