Sさんの「岸壁の母」

豊能障害者労働センターが誕生したのは1982年で、その時には現代表の小泉祥一さんと梶敏之さんという、脳性まひの少年(今はかなりのおじさんです)と、豊能障害者労働センターの初代事務局長で、現在は障害者の介護保障をすすめる箕面市障害者の生活と労働推進協議会のMさんと、現在はゆめ風基金の理事で今度の大震災で被災地にいち早く入り、岩手、宮城、福島に障害者支援の拠点づくりに参加、現在も走り回っているYさんともうひとり、Oさんの5人の専従と、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」の編集長で、ゆめ風基金の副代表でもある河野秀忠さんが代表という6人に、わずかの運営委員ではじまりました。
わたしは、たしかその年の7月ぐらいに事務所を訪ねたのがきっかけでした。事務所とは名ばかりの古い民家で、語り草になっていますが、冬にはビールを冷蔵庫に入れなければ凍ってしまうような風通しが良すぎる古い民家で、おまけに表通りから長い路地を通ってやっと玄関にたどりつくという案配で、脳性まひの二人は武藤さんと八幡さんに抱えられて畳の部屋に入り、二人ともまだ若くてたくましい腕とすり足で移動していました。

その翌年、1983年のある日、事務所に行くと大きな体を座卓にたたむようにうずくまっている少年がいました。そのひとがSさんでした。
その時一緒にやってきたYさんと2人、知的障害といわれるひとが豊能障害者労働センターにはじめてきたのですが、Yさんは30代の女性で人が好きで、とくに若い男が事務所に来ると、それまで疲れたと言って横になっていてもにわかに口紅を塗り直し、「いらっしゃい」と流し眼で笑いながら手を握り締めるのでした。そこで、お店が向いているかもとたこ焼き屋を始めたのですが、これが現在の豊能障害者労働センターのお店を7つも運営するきっかけになりました。
Sさんの方はひとこともしゃべらないのですが、一人になるといろいろなひとに電話をしていて、時々消防署に電話して救急車を呼んで叱られたりしていました。
Sさんも最初は粉せっけんの袋詰めをしていたのですが、1984年になってガレージを借りてたこ焼き屋さんと女性服を中心とした服屋さんをはじめた時に、服屋さんの担当になりました。梶さんも時々服屋さんを担当し、2人はよく試着室でラジカセの取り合いをしていました。
わたし自身もその後1987年にセンターに入り、翌年にそのお店を担当したのですが、Sさんは夕方になると相撲中継をかけるので、「女性の服屋で相撲はないやろ」とよくケンカをしましたが、今考えてみるとそれもなかなかユニークなことではあったと思っています。
ともかく、YさんとSさんはとても個性的で、思い返すとほんとうにいろいろな事件を通していままで「ふつう」と思っていたことがくつがえされ、次から次へと新しい発見がありました。それはわたしたちだけにとどまらず街のひとたちもまきこみ、その時は困った困ったとうろたえ、右往左往しましたが、いま思い返すと本人たちもうろたえ、右往左往しながら地域を耕していたのだと思います。

Sさんは中学生の頃までは陽気でよくしゃべっていて、バス旅行などでマイクが回って来ると「岸壁の歌」をよく歌っていたそうです。ところがある時、すごくいじめられたそうで、それから一言もしゃべらなくなったそうです。
わたしは、彼はある時しゃべらないと決心したのではないか、しゃべらないことで人間関係をつくろうとしたのではないかと思います。
実際のところはよくわかりません。そして、時には「わからない」ということを受け入れることが大切であることをSさんは教えてくれました。
それでも最初の頃は、月に一回の宴会などでSさんの名字を何度も何度もみんなで呼び、大シュプレヒコールが延々とつづくとニヤリと笑い出し、とつぜん、「岸壁の母」を歌うのを2回目撃しました。
そのうちの1回は月に一度、事務所での「れんげや飲み会」で、もう一度は1986年に箕面でわたしたちが学校の先生たちや地域のひとたちとつくった障害者作業所「そよ風の家」の一周年記念イベントの打ち上げの時でした。
いつものように名前を呼びつづけると、彼はにやにやしながら「ロクスケ出てこい」と叫びました。
「ロクスケ」とはあの永六輔さんのことで、永さんは余程の事情がない限り打ち上げには参加されず、急ぎ足で次の約束の場所に行かれていたので、この日も打ち上げには参加されませんでした。
Sさんはいつもだまってうつむいていて、イベントの時も舞台を見ていないように思うのですが、実はしっかりと見ていて、なおかつ辛辣な批評をメモ帳に走り書きしていたのですが、この日はきっと永さんのお話がとても気に入ったのでしょう。「ロクスケ出てこい」という叫び声にはどこか尊敬の気持ちがふくまれていたと、わたしは思います。自分のことはかえりみず「アンタはエライ」と言いたかったのだと思います。
もちろん、わたしたちは主催者か主催者に近い立場ですから、それが永六輔のことだとわかり、もし永さんが打ち上げに参加していたらと思うと冷や汗ものでした。しかしながら一方で、Sさんは機を見るに敏で、永さんがいたら絶対にそんなことは言わないことも知ってはいましたが…。
ともあれ、問題の「ロクスケ出てこい」の後、「岸壁の歌」を朗々と歌い出すと、みんな拍手喝さいでした。彼はその時のことを「西宮球場と思って歌った」と労働センターの機関紙に書いています。そして、歌いながら拍手の大きさで聴く人を評価していたことも…。
彼がなぜ「岸壁の歌」を愛唱歌にしていたのか、今もよくわかりません。彼は日本のポップスを幅広く聴いていて、今はビッグになった歌手やバンドがまだ無名に等しい頃にSさんがお店のラジカセで聴いていたのがきっかけで知ったというひとがまわりにたくさんいました。そんな彼が、二葉百合子の「岸壁の歌」を中学生の頃からよく歌っていたというのは不思議なことですが、なぜかそのパフォーマンスはその頃とても人気があり、豊能障害者労働センターの伝説のひとつとなっています。
後にSさんのよき理解者だったお父さんが亡くなった時、お通夜で周りをはばからず読経の間でも大声で泣き叫ぶ彼を見ました。お父さんだけでなくお母さん、弟さん、妹さんがSさんのことを気づかいながら暮らしてきたこの家族のやさしさとかなしみが彼の泣き叫ぶ声にあふれ出るようでした。その時、彼にとっての「岸壁の母」という歌が、すこしだけわかったような気がしました。

そんなわけで、わたしにとって「岸壁の母」はSさんが早口で棒読みのように歌う、パンクロック風の歌で、それは菊地章子さんでも二葉百合子さんでもなく、Sさんの歌の方が大きな歌になっています。
島津亜矢さんの歌う「岸壁の母」を聴かなければこんなことを思い出すこともありませんでした。歌は歌う方にとっても十人十色、聴く方にいたっては千人千色で、同じ時代を生きるわたしたちが同じ歌をちがった声で歌い、ちがった心で聴くからこそ、時には一つの歌が「かくめい」にまでいたることがあるのでしょうね。

Sさんもすでにおじさんになってしまい、このごろはお店の店員さんらしくしゃべっていて、久しぶりに会ったわたしも妻も「Sくんがしゃっべっている」とびっくりしたものです。
Sさん、今はもう「岸壁の母」は歌わないのですか?

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