身捨つるほどの祖国はありや どれだけの人が死ねば平和になるの?

国家の暴力と愛おしいかけがえのない命 

 ロシアによるウクライナ侵攻という暴挙から1か月、わたしはブログにもフェイスブックにも記事を書くことができませんでした。もちろん、ウクライナ各地で市民の命がうばわれることに憤り、すぐさま抗議の行動をおこした近くの友人たちに気後れしつつシンパシーを感じました。
 同時多発テロで始まった21世紀は、誰もが思い願ったはずの平和と人権の世紀とは程遠く、世界各地でのテロと国家による暴力で塗り替えられ、ついには冷戦時代に逆戻りするかのような侵略という形で、「国家」が自分に都合のいい正義に言い換えて人々の命を蹴散らしていく…、そのひとひとつがかけがえのない愛おしいたましいであることなど、国家を支配する権力にはなんの意味も持たないのでしょう。
 暮らしと街と家々を破壊され、家族や友だちの命を奪われ、今この瞬間にも自分のいのちさえ危ぶまれる状況にいるウクライナの人々が、「祖国」を守るために武器を持ち、戦場と化した街で戦い続けようと思うのは、あたりまえのことなのでしょう。たとえ武器を持って戦うことでさらに多くの命を奪い、自分の命さえも奪われるかもしれないとしても…。事実、ウクライナ国民の半数が「国を守るために戦う」という報道もあります。

国家による正義ともう一つの正義に引き裂かれた民主主義

 遠く離れた安全な場所で何を言っても無責任だと無力につつまれる中、それでも誰もがそうであるようにひとりの独裁者の野望から始まったとされるこの戦争をどうすれば止められるのか、これ以上の犠牲者を出さないためにどうすればいいのかと、思いまどい考えこんでしまうのはわたしひとりではないと思うのです。経済制裁で止めることができるのか、というより、ロシアの人々が困窮して独裁政権を倒すことを期待してしまっていいのか、国家としてのウクライナの「正義の戦争」のために武器を提供し、ロシアの撤退を実現することで戦争を止められるのか、ウクライナの大統領が言うように、ウクライナの戦いを支援することが世界の「自由と人権と民主主義」を守ることなのか…。
 この一か月の間、家族のために、祖国のために戦うウクライナの人々に心揺さぶられる一方で、徹底抗戦する勇気を讃える報道に息苦しくなります。報じられているようにロシアの人々にこの戦争の真実が伝わっていないとしたら、わたしたちもまたバイアスのかかった情報を真実と思い込んでいないのかと、自分自身を疑ってしまうのです。ゼレンスキー大統領の異例の国会演説が行われ、国会議員がスタンディングオベーションする光景を見ていて、今までにない同調圧力に恐怖さえおぼえ、屈折した感情はますます深く広がっていく一方です。
 シリア、パレスチナ、ミャンマー、香港、イエメン…、世界各地の内戦や紛争について、わたしたちは今回のようにたくさんの情報を得ようとしてきたのでしょうか、おびただしい命が奪われ続けている現実に向き合ってきたのかと思うと心が寒くなります。世界戦争になるかもしれないウクライナの危険な現実を前に、他人ごとではないと日本の防衛力を強化し、憲法を変え、核の共有をも検討すべきだとするひとたちが声高に発言しています。
 とくに、チルノブイリ原発をロシアが攻撃したことから、原発の防御の脆弱さが指摘されていますが、原発にミサイルが落とされたら大惨事になることはわかっているのですから安全保障上、真っ先にすべきことは原発を即時廃止すべきなのではないでしょうか。それから後でもこの人類の負債をかえしていくために100年単位の時間が必要なのですから。 

 そして、起こされてしまった戦争を人道上に立って止める呼びかけをロシアのプーチン大統領にできる日本独自の外交はなかったのでしょうか。安倍晋三氏が首相時代にプーチン大統領と20数回も会談した間柄なら、侵略行為をやめるように進言することはできなかったのでしょうか。それができない彼のロシア外交は何の意味も持たなかったことをきびしく検証すべきだと思います。
 今回のロシアの暴挙は、新自由主義とグローバリズムで一掃されかけたと思える「国家」という暴力装置が冷戦後も確かに存在し、世界はベルリンの壁の崩壊から実は変わっていないことを証明しました。ベルリンの壁の崩壊を「社会主義」の崩壊としてしまった西側の「自由と民主主義」もまた、そこから崩壊の道を歩んできたのではないかと思います。
 あの時、「西側」の人々は壁の向こうから押し寄せてきた人々を自分たちのシステムにはめこむことで迎え入れてしまったけれど、ほんとうは彼女彼らから学ばなければならないことがあったのではないかと思います。社会主義の夢はすべて悪夢であったとは言い難く、新自由主義の夢もまたいい夢ばかりではなかったのですから。世界中で膨大な死者と飢餓を引き起こし、格差が人々を苦しめてもまだ成長神話が豊かな自然を荒野と化していく…。

 わたしたちはかなわぬまでももう一度1989年に立ち戻り、社会主義の夢を貶めてしまった全体主義・国家主義からも、自己責任という言葉で簡単に人の一生をきりすててしまう新自由主義からも解放された新しい世界のあり方を探さなければならない時代を生きているのだと思います。日本政府はウクライナの避難民を受け入れることを決定しましたが、これを機にあらゆる地域の難民の受け入れと外国人労働者への差別的な政策をあらため、彼女彼らから新しい日本社会の在り方を学ぶきっかけになればいいと思います。

 ふりかえれば私が生きてきたこの75年の間ですら、世界でも日本でもおびただしい数の命が奪われ、子どもたちの悲鳴がたえることはなかった。ましてや、わたしが生まれる前のずっと昔から、どうしてこうもわたしたち人間は武器を持ち暴力を振るい、他者をきずつけ自分もきずつけることをやめられないのかと、暗澹たる思いになります。
 また、気候危機のただ中で大きな自然災害が起きるたびに、「ひとは助け合わなければ生きていけない」と何度も何度も思い知らされるのに、どうしてこうもそのことを忘れ去り、「助け合うこと」や「ともに生きること」や「平和に生きること」は取るに足らない甘い幻想・理想と片づけてしまい、誰も助けてくれないし、誰も助けられないうすら寒い「厳しい現実」を掲げ、「自己責任」という牢獄に自らを閉じ込め、それに従わない者には命までも危うくなるような見えざる正義という暴力を平気でふるってしまうのでしょうか。
 失われた命と失われた未来、失われた夢と失われた希望がたどり着くはずだった行く先に思いを巡らし、この理不尽な現実を教訓にどんな社会をめざし、つくりだすのかは、今を生きるわたしたちの役割ではないかと思います。

身捨つるほどの祖国はありや どれだけの人が死ねば平和になるの?” に対して1件のコメントがあります。

  1. まり より:

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    シリア、アフガニスタン、パレスチナなんて最早欧米の白人逹の感心すらない。見た目白人で金髪碧眼なら、こうも同情されるのかと薄ら寒くもなった

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