すべての記憶は涙で濡れている ウォン・カーウァイ2

百年たったらまたおいで

ガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」は、男が過去の視点から未来について想像する一文で始まりますが、それは現在を表すことでもあります。
映画でもこういったことができないか、考えていました。
そこで私は香港返還後に規定された一国二制度の「50年不変」について考え始めました。
この規定の比喩として映画を作ったら面白いのではないかと思いました。
50年後も変わらない都市を想像してみようと思ったのです。
それがこの作品の起源です。

(「2046」について ウォン・カーウァイ)

過去から疾走する未来に取り残される街と行方不明の恋

 2004年に制作された「2046」は、「欲望の翼」、「花様年華」に続いて1960年代を舞台にした作品で、1966年の香港から2046年の香港を想像するSF小説の語りでつづられる愛の物語です。
 1966年、香港。シンガポールから帰ってきたチャウはホテルに滞在し、夜な夜な女性たちとの刹那的な関係を繰り返しています。チャウが借りているホテルの部屋は2047号室で、隣の2046号室にバイ・リン(チャン・ツィイー)がやってきます。
 ホテルのオーナーの娘ワン・ジンウェン(フェイ・ウォン)は日本から来たビジネスマンのタク(木村拓哉)と恋に落ちるのですが、父親であるオーナーに交際を反対され、タクは日本に帰国してしまいます。文通もままならない2人に、チャウはタクの手紙を代わりに受け取ろうと申し出ます。
 言葉も通じず遠く国を隔てられた恋人同士にインスパイアされて、チャウは近未来小説「2046」を書き始めます。小説の登場人物たちはアンドロイドが客室乗務員を務める列車に乗り込み、そこへ行けば失われた愛を見つけることができるという未知の都市「2046」を目指します。
 そして「2046」から日本人のタクが列車に乗り、その車内でアンドロイドに恋をするというもうひとつのSF小説を執筆します。チャウは小説に自らの日常を反映させ、主人公の男に自分自身を投影しながら執筆を進めていくのでした。
 チャウはシンガポールに行く前の香港での人妻との秘めた愛を忘れられないでいて、女性たちと一夜限りの夜を過ごすだけになってしまうのも、彼女のことが忘れられないことが主な理由なのですが、一方でその経験から女性たちと深い関係になってしまうことを恐れるからでした。
 夜の仕事をしているバイ・リンが彼を深く愛するようになり、チャウと枕を交わすごとに10ドルを支払うバイの切なく激しい恋心に胸が震えます。それでも結局、チャウは真正面からバイを受け止めることができないまま、バイは去って行くのでした。また過去にシンガポールで愛に傷つくチャウを大きく受け止め、愛した賭博師の女性(コン・リー)も回想されます。
 1966年の香港で小説を書くチャウと、2046という小説の中の未来都市から旅立とうとするタク。2つの時空が交差し、彷徨するそれぞれの旅の果てで彼らを待ち受ける運命はいかに…。

開かれない宿命の扉をすり抜ける失われた愛と香港

 ネタバレになりそうでもなんの問題もないほどあらすじをきちんと語れないのはわたしの文章力のなさもさることながらこの監督の映画らしく、この映画のほんとうの主人公は香港という都市そのもので、「2046」というタイトルどおり、本来なら1997年から50年間は一国二制度で中国本土の社会主義体制を適用しないと約束された香港にじわじわと押し寄せてくるタイムリミットを背景に、その宿命を背負う大きな不安がこの映画に他の映画以上に切迫した緊張感と不安定さと、刹那的な疾走感をもたらしています。
 映画ファンにはこの映画の評価は「恋する惑星」や「花様年華」ほど高くないようで、木村拓哉の出番を意識的にふくらませたりするあざとさが感じられるのも事実でしょうが、もともとこの監督の映画作りにはその時その時代の空気感を取り入れながら展開を変えていくことは当たり前で、キムタクの物語を増やすことで2046年の香港をたぐりよせ、アンドロイドが涙を流すというこの世でもっとも切ない恋を描くこともできたのではないかと思います。
 そのことはそのまま、香港の未来が決して明るくないことと、過ぎ去ることでしか愛せないチャウの愛と香港の現在がシンクロナイズされ、なんとも哀しく切ない物語になっていくのでした。
 実際、時が経つにつれて中国政府の権力が反映され、鄧小平が約束した一国二制度が無効になっていると言ってよく、個人の自由と権利への大幅な制限に異議申し立てする民主派と言われるひとびとを法と暴力で抹殺し支配するようになっています。
 この映画は、政治的な自由だけでなく、個人のささやかな幸せや自由さえも制限され、声を上げることができなくなる社会に加速度的になろうとしていること、そして、やがて映画作りも含めた文化活動もその例外ではなくなり、自由な表現ができなくなっていくことを予感し予言し、そのプロセスそのものをスクリーンに定着させたともいえると思うのです。
 「ハッピーエンドにする方法がわからない」という言葉は、チャウ自身の恋愛や人間関係にも、また香港の未来にもかかっているのでしょう。

わたしたち自身の未来とつながる記憶の回路・香港

 ウォー・カーウァイの映画は、この監督の数字に対するこだわりが刺激的でひとつひとつの映画でも十分楽しめるのですが、今回5本の映画を一挙に見てそれらの数字が別の作品への重要な呼び水になっていたり、これらの映画が必ずしも順番につくられたのではなく、同時並行で進められていたことを知り、この監督の映画が一方ではゴダールのようにカメラを現実の街に放り投げることでドキュメンタリーを越える時代のフィクションをわたしたちに投げかけて見せたのだと思いました。
 「彼は振り返らなかった。長い列車に乗り、闇の中を、ぼんやりした未来に向かって走るように……」。
 わたしは身の回りでも世界でも頻発する大きな事件や事故、紛争が直接政治的に反映される表現行為よりも、10年後20年後までもひとりの人間の心の中にさまざまな影響を与え、そこからそれまではあり得なかった表現行為や作品が個人の内面や恋愛をテーマに表出されることに強い関心を持ってきました。まさしく、この時代のウォー・カーウァイの映画は私好みの卑近な例を言えば阿久悠や寺山修司、村上春樹などに感じるポップアートにも似たものなのだとつくづく感じるのです。
 もっとも、この映画の主人公・チャウの女性遍歴は小説や言葉で読めばどうしようもなく軽薄にも思えるのですが、映画ならば、そしてトニー・レオンならば心のひだの奥のもっとも深い場所に涙をためているように納得してしまうのです。