2015年8月16日の小室等・坂田明・林英哲その2

そのひと振りから響き渡る音はもはや太鼓の音と言い難く、長い年月開くことがなかった新しい時代の扉が開く音のように聴こえました。
2部は林英哲さんの太鼓から始まりました。
以前にも書きましたが、わたしはまったく不明にも若いころに山下洋輔とのデュオを聴いた時には英哲さんの太鼓のすばらしさをあまりわからないままでした。山下洋輔についても大学紛争のバリケード内で演奏した音源を麿赤児がプロデュースしたLP「ダンシング古事記」を通信販売で求め、その後も1、2枚のアルバムを聴くだけでした。
その後、わたしが箕面に住んでいた時に友人が箕面市民会館(現グリーンホール)で山下洋輔のコンサートをするというので手伝った時にはじめて彼のピアノを生で聴いたぐらいでしたから、今では伝説となっている二人の演奏をしっかりと受け止める感性がなかったのです。
そのわたしが林英哲さんの太鼓に心をさらわれたのはちょうど一年前の、高山での「飛騨の夏祭り」の時の演奏でした。わたしは昨今、島津亜矢を知って以来、それまでなれ親しんできたロックやポップスから、彼女の「演歌」に傾倒してきました。手垢にまみれているように思ってきた演歌ではなく、心の背中から聴こえてくるというか、島津亜矢の歌にはわたしの生まれるずっと前から、おおげさに言えば人類が誕生した時から歌い継がれ、幾多の時代を時の権力とあらがい、次の時代へとつないできたいのちのリレーとしての「うた」、争いの血を流し続けてきた歴史の屍を越えてそのたすきを託してきた「傷つけあわない」社会への切ない願いとしての「音楽」が隠れていて、最後のたすきをわたしに手渡しているような錯覚にとらわれるのでした。
林英哲さんの太鼓を体験するとその錯覚は現実になり、まるで母親の胎内で生まれる準備をしていた時から聴こえていたような、いのちの音楽の誕生の地にいざなってくれるのでした。まるでなつかしい祭囃子の遠い太鼓のように…。

わたしは長い間、太鼓に偏見を持っていました。元気よく勇ましく、大勢の人間がまるでマインドコントロールにあったように同じ動作を延々とつづけ、それを聴くわたしはただただ酔いしれることを要求されるような、一見ファシズムのようなにおいすら感じていました。その不遜で傲慢な想いは、英哲さんが太鼓を打つたった一振りで粉々になりました。
英哲さんの太鼓は、何層にも重なる空間と時間のすきまから幾多の時代に生まれ、死んでいった無数のたましいを解放し、彼女たち彼たちに導かれるように光り輝く約束の地へといざなってくれるのです。
ああ、太鼓は空間を破って未来へと突き進むのではなく、むしろ空間のほころびを縫い合わせ、次の未来への重い扉を力ではなく、祈りによって開く救済と希望の楽器なのだと知りました。

次に登場した坂田明さんの「サマータイム」は突然の不意打ちで、涙が出ました。この曲を演奏する動画を見たことがあり、激しいアドリブで圧倒される、これぞ坂田明さんの音楽と言える感動のステージですが、この日の演奏は他の曲もふくめて抑え気味でメロディーをしっかりと押さえ、アドリブも控えめながらやや重厚でゆっくりと観客の心にしみこんでいくような演奏でした。
「サマータイム」は、ジョージ・ガーシュウィンが1935年、黒人コミュニティの風俗をリアルに描いたオペラ「ポーギーとベス」のために作曲した劇中歌です。
1936年にビリー・ホリデイが歌ったものがヒットして以来、ジャズのスタンダードとなり、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス、エラ・フィッツジェラルドなど数多くのミュージシャンが演奏し歌った他、ジャニス・ジョプリンがブルース・ロック風にアレンジしたものも有名で、クラシックと縁のない人間でもこの歌を若いころから知っているのはジャズのスタンダードとしてもポップスとしても数多くのミュージシャンに歌い継がれてきたからでしょう。
わたしはこの曲を聴くと、河や池がきらきら光り、山が緑をくもらせる夏の終わりのけだるい夕暮れを思い出します。わたしの住む能勢がいままさにそんな風景ですが、夏が過ぎていくこの頃は、わたしにとって秋よりも一年でもっともさびしい季節でもあります。とりかえしのつかないことや後戻りできない人生の切なさにとらわれる一瞬の心の震えや揺らぎを、この日の坂田明さんのサックスは手のひらを夕陽にかざすように優しく愛おしく恋しく綴ってくれるのでした。
その後、林英哲さんと坂田明さんのデュオが始まると会場はすでに恍惚と言っていいほどの感動に包まれました。
先ほど林英哲さんの太鼓が未来への重い扉を力ではなく、祈りによって開く救済と希望の楽器だといいましたが、英哲さんの太鼓によって解放された無数のたましいは坂田明さんのサックスによってよみがえり、かくしつづけてきた夢や希望や歌わなかった歌や声に出せなかった叫びがサックスからあふれ出るのでした。
林英哲さんがかすかな音から大きく響き渡る音まで大太鼓を打ち放ちながら、伸びのある透きとおる声で歌う「太鼓打つ子ら」も、坂田明さんが叫びのような唸りのような、人間が昔から持っていたはずの「原初の声」で歌う「音戸の舟歌」も、単に「いやし」という言葉では言い表せない、「悼む心」から発せられる人間と自然のものがたりを語り歌う壮大な叙事詩なのでしょう。そして、小室等さんも加わり、演奏した「死んだ男の残したものは」も「老人と海」も…。
最後にもう一つのゆめ風基金応援歌「風と夢」を会場からもステージに上がり、会場みんなで歌い、コンサートが終わりました。
このコンサートの1部がいろいろなひとに支えられたゆめ風基金の20年を振り返り、20年で惜しくもなくなったいのちたちを悼む心を共にする時間だったとしたら、2部は林英哲さんの太鼓と坂田明さんのサックスが時代の扉をこじあけ、新しい時代をめざし、どんな自然災害にも強い防災力で助け合える社会と、共に生きるすべてのひとの勇気をたがやすゆめ風基金を応援する希望のコンサートになりました。
小室等さん、坂田明さん、林英哲さん、こむろゆいさん、英哲風雲の会の辻祐さん、田代誠さん、そして1年間このコンサートのための準備にかかわって下さった林英哲さんのマネージャーのOさん、Oさんが紹介してくださった音響、照明の方、そして妥協をゆるさず、お客さんに満足していただける舞台をつくるためにできるだけのことをしてくださった監督のWさん、坂田明さんのマネージャーのWさん、みなさん、ほんとうにありがとうございました。
とくに小室さんは2部では完全に主催者の側に立って司会までしてくださいました。
ほんとうにありがとうございました。

私事ですが、わたしはこのコンサートの成功を見届け、ゆめ風基金を退職することになりました。思えば2011年3月の東日本大震災直後に短期の臨時スタッフとして勤務を始め、最初は3ヶ月の予定でしたが20年のイベントが終わるまで4年半お世話になりました。
なにぶん、基金活動団体での勤務はわたしがいままでやってきた障害者の働く場運動とは少し色合いが違い、戸惑いとともに多くの方々にご迷惑をおかけしました。
退職、引退は年齢的にも68歳となり、いい潮時でもう一度自分の人生を見つめ直すいい機会になると予感しています。また、そうしなければという思いもあります。
このブログは親しいひとも読んでくれているようなので、本名にてお知らせしました。
細谷常彦

小室等「死んだ男の残したものは」

坂田明「死んだ男の残したものは」

坂田明 「Summertime」

林英哲「海の炎 -UMI-NO-HONOH-」

林英哲&山下洋輔 「ボレロ」

小室等「老人と海」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です