再録 小室等さん、ゆめ風基金の事務所に来る!

2015年4月19日、小室等さんとこむろゆいさんがゆめ風基金の事務所に来てくださいました。
わたしが働いている被災障害者支援「ゆめ風基金」は、1995年、阪神淡路大震災の救援活動をした「障害者救援本部」の後を受け、発足しました。被災障害者への息の長い支援を継続する一方で、これから先いつどこで発生するかわからない自然災害に備えて全国的なネットワークをつくり、東日本大地震の際にも被災地の障害者団体とともに救援、支援活動を続け、今に至っています。
設立から10年は永六輔さんに呼びかけ人代表になっていただき、それから後は小室等さんが呼びかけ人代表を引き受けて下さり、わたしたちの声が届きにくいところにラジオやライブを通じてゆめ風基金の活動を紹介してくださるおかげで、たくさんの方々が会員になってくださっています。
20年を迎えた今年、小室等さんからお願いしていただき、ジャズサックス奏者の坂田明さん、太鼓奏者の林英哲さんをお迎えし、小室等さんとの3人によるコンサートが実現しました。
いま、ゆめ風基金はその準備に昨年の9月から取り組んでいて、コンサート直前に発行する機関紙上で小室さんとゆめ風基金の代表理事の牧口一二さん、副代表の河野秀忠さんとの座談会を企画しました。
本来ならこちらから東京に出向くところでしたが、ゆめ風基金の事務所に来ていただけないかとお願いしましたところ快諾していただいただけでなく、せっかくだからとミニライブをしていただくことになったのでした。
ちょうどいいタイミングで18日に京都のライブハウス「拾得」に出演されることから19日にきていただくことになり、急きょ事務所をなんとかライブ会場へと「変身」させ、日ごろお世話になっていてコンサートを応援してくださる40人の方々に集まっていただき、このサプライズが実現したのでした。
昼ごろに到着予定でしたので、牧口さんと河野さんがお迎えに行き、新大阪駅のお店で昼食をすませていただき、一時前に事務所に来られました。サプライズで障害者スタッフのFさんが永六輔さん・谷川俊太郎さん共作詞・小室等さん作曲の「ゆめ風応援歌」のCDに合わせて電子ピアノ演奏しました。
お二人は前日の京都のライブでのお疲れも感じさせず、いつものコンサートの時の入りとは少しちがい、どこかリラックスされているようでした。
小室等さんといえば60年代後半からフォークシンガーとして知れ渡っていたひとで、1971年の「出発の歌」以来、日本のフォークソングからニューミュージック、Jポップへとつながる音楽シーンを切り開き、「自分の歌は自分でつくる」道を若い世代に用意したカリスマです。わたしもテレビやCDなどで一方的にファンである以上にお付き合いさせていただくことなど信じられない所なんですが、豊能障害者労働センターの元代表だった河野秀忠さんとのつながりから1986年に大阪府箕面市でのコンサートに来ていただいて以来、親しくお声をかけてくださるようになりました。
この日の集まりもそうですが、「雲の上のひと」で「あこがれのスター」であるはずの小室さんとふつうに日常会話ができるのは、小室等さんの人柄あってのことです。さらに言えばわたしたちもふくめて全国各地のさまざまなひとと肉声で語りあい、心を寄り添わせるその心から生まれる音楽が単にメッセージソングではなく、ひとの心を沸き立たせ、ひとのかなしみのそばに立ち、ひとの声なき叫びに耳を傾け、ひとが絞り出す希望を勇気に変える静かな歌と言葉の中に裏付けられた、はげしさと根源的という2つの意味をもつ「ラジカル」な音楽性を持ちつづけてきた小室さんでなければありえないことだとわたしは思います。

いよいよ第一部、牧口さん、河野さん、小室さん、そしてゆいさんも加わり、座談会が始まりました。設立当初のことや小室さんとの出会いなど、マスコミ取材もまじえて1時間半ほど、ゆめ風基金誕生秘話というにふさわしいエピソードが語られました。
そのなかでも、阪神淡路大震災の時、河野さんが被災地に入り、瓦礫の上に立ち、半ばぼうぜんと、そのうちに何かに取りつかれたように牧口さんに電話し「金や、牧さん金や」と叫び、牧口さんが「どれぐらいいるん?」、「10億円や」、「そんなにいるか、5億円ではだめ?」となんの根拠もなく値切っている自分がおかしかったという話は、そういえば同じ時、豊能障害者労働センターが開いた救援バザーの売り上げの集計をしていた時、障害者スタッフの一人が、「何ぼあると思う?、僕一億円あると思うわ」と言ったことと重なります。それは冷静な金額ではなく、その障害者が被災地の仲間を思い、たくさんのお金がいると感じ、理屈ではなく「一億円」と言ったように、牧口さんも河野さんも大変で困難な現実を目の当たりにした時に、思わず「10億円」と口走ったのでした。
本来なら基金活動を始める団体として、設立委員会を何度も開き、目標金額を掲げるとすればさまざまな観点から検討し、妥当な金額をはじけだすところでしょう。困っている障害者、中には命が消えようとしている障害者がいつも後回しにされることを痛いほど経験した2人にとって、そんな余裕などあるはずもありませんでした。
それまでの長い年月、生きることがたたかいにならざるをえなかった障害者の生きる場・活動の場がほとんど瓦礫となった今、マスコミがとりあげない障害者の現実を全国に伝え、すなおに「助けてくれ」というメッセージとともにかかげた「10億円」という金額は単なる数字なら日本赤十字などの基金にはるかにおよばないですが、全国の障害者やその仲間たちには「とんでない大きな金額」で、ほかの説明をしなくても被災地の障害者の困難な状況がそのまま伝わるには十分な金額でした。
このようにして「10億円」は数字をこえて、被災地の障害者の大きな悲しみ、苦しみ、怒りと、その過酷な現状からの一刻も許されない脱出と救援、再建再生へ共に行動しようという決意とつながりを表す心のメッセージとして、全国に広がって行きました。
その10億円を1年間に1万円ずつ、10年かけて送って下さる方を10万人見つけたいと永六輔さんに話したところ、「それはいい」と賛同してくださり、呼びかけ人代表になってくださり、小室さんをはじめたくさんの各界を代表する方々に声をかけてくださったのでした。
そして、最初の基金をいただいたのが山田太一さんであったことも、多くの方が知らない事実でした。牧口さんと河野さんがお付き合いのあった山田太一さんがたまたま大阪に来られていることを知り、アポもとらず会いに行き、必死で思いを伝えたところ大いに賛同していただき、「今はこれだけしか持ち合わせがないのでもうしわけない」と、財布からなけなしのお金を基金してくださったのだそうです。
決して理詰めでない不退転の決意で設立されたゆめ風基金は、救援金や息の長い支援金の拠出の在り方もまた変わっていました。障害者のための基金であることはもちろんのこと、他の基金が公平・平等を重んじるあまりに届けるのがずいぶん遅れてしまうのに対して、伝え聞く親鸞上人の教えではありませんが、長い信頼関係を気づいてきた現地の団体の調査にもとづき、またまったく知らない団体の場合はこちらから調査にうかがい、「いま困っているところに、いますぐ救援金を送る」ために最善を尽くすゆめ風基金の姿勢は、被災地の障害者団体から圧倒的な支持をいただいてきました。
時には2、3日でまったく知らない障害者団体に届き、どれほど感謝されたでしょうか。半年先の1000万円より、今日明日の50万円がどれだけうれしかったかと、メッセージをいただきました。
小室さんはわたしたちやお客さんと同じ立場で、牧口さんと河野さんの、少しずつ遠ざかる記憶を引き出す役目をかって出られて、笑いに包まれた鼎談でしたが、今の政治や社会状態の危うさを憂い、沖縄の辺野古基地の問題では思わず涙で絶句されました。このひとがゆめ風基金だけでなく全国の数々の地域で心を痛めながら日常を必死にたたかっているひとたちと共に生き、そこからあのすばらしい歌がうまれることを実感した瞬間でした。
この長い一日を記録するにはもう少し紙面が必要で、とりあえずは一部の座談会の報告をここまでとし、つづけてコンサートのもようとその後の懇親会、そして居酒屋での出来事などを書きます。

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