再録 谷川俊太郎・永六輔・小室等「少年期は戦争だった」

1月20日、東京の渋谷で被災障害者支援「ゆめ風基金」とカタログハウスの共催で「ゆめ風であいましょう 少年期は戦争だった」というトークイベントがあり、そのスタッフとして朝早くに出発し、昼ごろに渋谷に着きました。このイベントは永六輔さん、谷川俊太郎さん、小室等さん、そして、ゆめ風基金の代表・牧口一二さんが今の世の中のきな臭い空気を会場のお客さんと共有しながら、子ども時代に戦争と言う非常時をくぐり抜けてきた体験を語り合うイベントでした。
声高に反戦や平和を訴えたり戦争の非合理と悲惨を語るのとはちがって、戦闘機のおもちゃに熱中した話やみんなが軍国少年だった話や、戦争が終わり疎開から戻ってくると瓦礫とともに死体が転がっていた話、ほとんどの文学や芸術が戦争に加担していったことなど、今につながる連続した日常の生々しさを淡々と語り合われました。
そのなかでも永六輔さんのお話でしたが、戦争によって破壊された町は震災の瓦礫どころではなく、広大な瓦礫の荒野で、家々で防空壕を掘って空襲に備えていたのだけれど、その防空壕でひとびとが歌を歌っていて、瓦礫の下から歌が聴こえてきたというお話が印象に残りました。
2部では小室等さん、こむろゆいさんが歌でつなぎながら、永六輔さんがます登場しました。ご存じの方もたくさんいらっしゃると思いますが、永六輔さんはパーキンソン病で車いすを利用し、しゃべりにくくなっても持ち前の「芸人」堅気でお客さんを笑わせながら、個人が国によって押さえつけられたり、時代を越えて伝えられてきた市井の文化が権威にゆがめられることに対しては徹底的に物申す姿勢は依然とまったく変わりません。
そんな永六輔さんが20年前に阪神淡路大震災を機に設立されたゆめ風基金という、障害者をはじめとする市民の、市民による、市民のための被災障害者支援基金運動にいわゆる「官制」にはない可能性を見つけてくださり、惜しみない応援をしてくださったことに感謝の言葉がみつかりません。そして、どんなふうに自分が変わっても依然と少しも変わらない精神で人前に出て、「伝えなければならない」思いを精いっぱいお話されることに感動します。
もうかなり有名な「ネタ」にもなっているお話があります。永六輔さんが病院の廊下の手すりにつかまって歩行するリハビリをしていた時、サポートする東南アジアから来た青年が「永さん、前かがみにならないで上を向いて歩きましょう、そうそう、日本にはいい歌があるではないですか、『上を向いて歩こう』という歌が。永さん、その歌を知りませんか」といいました。永さんが「知りません!」というと、廊下の患者さんたちが大笑いしました。お医者さんが「永さん、まじめな青年に嘘を言ったらだめですよ。ほんとうのことを言ってあげなさい」と忠告され、永さんが「あの歌はぼくがつくったんだよ」というと、「うそでしょ!」…。
この話は何年も前から聞いているのですがどんどん進化していき、そのたびに新しい笑いが生まれるのですが、普通なら障害を持ち、それがどんどん進んでいくことからもう人前には出ないでおこうと考えても仕方がないところ(事実そんな風に思われたこともあるそうですが)、小室さんや谷川さんたちをはじめとする友人や、どんな状態になっても永さんをひたすら待ちつづけ、話を聞きたいと願う全国の数多くの人びとが永さんを励まし、永さんがそれに応えることでひのひとびともまた生きる勇気をもらっているのだと思います。
次に登場した谷川俊太郎さんの前で、小室さんたちが「おはようの朝」を歌いました。この歌はわたしが小室等さんと谷川俊太郎さんのほんとうのファンになったきっかけとなった山田太一脚本の「高原へいらっしゃい」のテーマソングでした。
小室さんもお話しされていましたが、「ゆうべみた夢の中で、僕は君をだきしめた はだしの足の指の下で なぜか地球はまわっていた」という歌詞が不思議な中にもかわいた切なさのようなものを感じる大好きな歌です。
谷川さんはいくつかの詩を朗読されましたが、このひとは書く詩と読む詩と歌う詩とそれぞれちがったアプローチをされているように思います。他人の詩でも自分の詩でも谷川さんが朗読すると言葉がすでに歌となって歌い出し、ダンスとなって踊り出すようで、とても心地よく、そしてつらい感情までもが心にしみていくのでした。
小室さんにうながされて最初に読んだ詩は、永六輔さんの歌詞でいずみたく作曲、デュークエイセスが歌った「ここはどこだ(沖縄)」でした。
「ここはどこだ いまはいつだ なみだはかわいたのか ここはどこだ いまはいつだ いくさはおわったのか」。永さんの歌詞に込められた沖縄のひとびとの涙と怒りが立ち上がってくる朗読に、心が震えました。
そして、谷川さん自身の詩で「戦争と平和」を朗読されました。わたしははじめてこの詩を知りましたが、戦争という名前の男と平和という名前の女の設定で、わかりやすい言葉で語られる、谷川さん流の「静かでひそやかな反戦詩」でした。この詩の最後を、「お腹の中の子は母親似であってほしい」という願いで綴られていました。
その他、茨木のり子さんの「わたしが一番きれいだったとき」を朗読されました。谷川さんは一部のトークとはちがい、2部では「戦争を絶対にしないために、ひとがひとにさべつされないために、ひとがひとをきずつけないために、自分の言葉をみつめ、発しなければいけない」という隠れた切迫感をただよわせていました。
谷川さんにはこどもたちに伝えようとひらがな言葉でつづる数えきれない反戦の詩があり、大人が読んでも心にひびきます。わたしは小室さんも歌っている武満徹作曲の「死んだ男の残したもの」しか知らなかったのですが、谷川さんの場合は反戦平和の詩というような明示をする必要はなく、21才の時に発表された「二十億光年の孤独」から現在まで80冊以上の本に収められた数々の詩、歌となったたくさんの詩など、そのほとんどの詩が「戦争へと進む道」にたちはだかるように、個人の自由の発露としての言葉をさがし、とくに未来の世界をつくっていくこどもたちに託してこられた足跡なのだと思います。
わたしは実は谷川俊太郎さんもまた、寺山修司から教わりました。寺山修司は歌人・詩人として活躍していた頃、「机の上で書かれた詩など、なんの意味もない」とか、「詩人は誰に向かって詩を書くのか」と挑戦的な批判を続けていました。彼の主張によると、「公衆便所の落書きや電話帳にも詩が存在する」というわけで、世の中が激動し、大人たちが社会の迷路に迷い込み、若者たちが荒野に立ちつく時、机の上でブッキッシュに書かれた「芸術的で詩的で難解な言葉が連なる詩」などなんの役にも立たないのでした。
そんな彼がその頃唯一認めていたのが谷川俊太郎さんでした。その頃は先に書いたように生きまどう現代人の心に、わかりやすくやわらかい言葉で社会が押し付ける暴力を静かに拒否する谷川俊太郎の詩を評価していただけなのかと思っていましたが、実は誤解されることが多かった若き寺山修司の才能を早くから認め、病気がちだった寺山修司を励まし、仕事を世話したりしていたことなどを、昨年亡くなられた元妻で寺山修司の仕事だけでなく人生をささえてこられた九條今日子さんの「ムッシュウ・寺山修司」(ちくま文庫)で知りました。
晩年の寺山修司との「ビデオレター」のことは知っていましたが、寺山修司の最後を看取った谷川俊太郎さんは、遠くから見ればあこがれのひとで、今回近くで見ると怖いほどのオーラを感じましたが、物静かなたたずまいの中にもとても気さくで、面倒見のいい方なのだと思います。
戦後生まれのわたしは、戦前戦中のことをあまり知らないまま、戦後民主主義教育の中で育ちました。周りの大人たちはといえば戦争中の自慢話や苦労話で花が咲くという感じで学校の先生がいうこととまるでちがっていて、わたしは学校が正しく、「あんな大人になってはだめだ」と傲慢にも思っていた「軍国少年」ならぬ「戦後民主主義少年」でした。
しかしながら、たとえば島津亜矢が歌う戦前の歌を聴いたり鈴木邦男や竹中労などの文章を通じて、わたしの生き方や社会に対する考え方には戦前戦中とのつながりが抜け落ちていることに気づかされました。
今回の3人の方の話を通じて、少なからず軍国少年に染め上げられた当時の子どもたちが戦後を生き抜く中で、時代のつながりが途絶えないまま自分の人生を切り開いてこられたことを知りました。そして、「戦後民主主義」の空手形とともに「自由と権利」のバーゲンセールに翻弄されてきたわたしに決定的に足りなかったものが何かも教えてもらいました。戦争へと突き進んでいった時代から出発し、自分を確立し大人になり、いま戦争や平和を語る3人には、なによりも抑え込まれたりマインドコントロールされたものではない、たしかな肉声としての自分の言葉がありました。
身近なところから政治や社会、そして世界の問題にいたるまで、自分で考え自分の言葉で語ることこそが他者の言葉や他者の考えにも心がおよぶことをつくづくと感じた一日でした。

坂本九「上を向いて歩こう」

上を向いて歩こう / 忌野清志郎&甲本ヒロト

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