チューリッヒ美術館展

少し前になりますが、神戸市立博物館で開催されている「チューリッヒ美術館展」を観に行きました。テレビで黒柳徹子さんが宣伝している展覧会で、5月10日(日)まで開かれています。
スイスの美の殿堂チューリヒ美術館のコレクションの中から、日本で初めてまとめて出品されていて、幅6メートルにおよぶモネの大作やシャガールの代表作6点に加え、ホドラーやクレーといったスイスを代表する作家の珠玉の絵画、さらにはマティス、ピカソ、ミロといった20世紀美術の巨匠の作品など、これまでなかなか来日の実現しなかった印象派からシュルレアリスムまでの傑作70点以上を一堂に会した展覧会です。
わたしは高校時代、「絵を描かない美術部員」で、授業をさぼって美術部の部屋に隠れていたり、美術部員でもない先輩が、ちょうど人気ドラマ「相棒」でとなりの課長が「ひまか」とやってくるように毎日部室に現れ、お互いにほとんど理解していたとは思えないサルトルの実存主義を語りあったりしました。
子どもの頃から絵が好きではありましたが、高校の美術部に入ったのは「絵を描く」ためではありませんでした。その頃どもりで悩んでいて、女の子に笑われるのが嫌で、女の子がいないという理由だけでまったく興味のなかった工業高校の建築科に入り、教科書を読まされるのが嫌でびくびくしながら、心を固く閉ざして学校に通っていました。
そんなわたしのただひとつの居場所が美術部の部屋だったのでした。
美術部室には「個性的」な生徒が集まっていて、わたしにとってその小さな部室の数人が数少ない友だちで、放課後に美術部の部屋に行き、学年のはじめだけは石膏デッサンを熱心にしたものの高校3年間のほとんどの時間を、みんなが絵を描いている間本を読んだり、頼まれもせずに掃除をしたりしながら、なぜか詩人になりたいとぼんやり思っていました。
その中に2人のK君もいて、後にひとりはこのブログを始めるきっかけになったひとで、わたしに島津亜矢を教えてくれた人でした。もう一人は…、妻の元夫で、エゴイストで幼児性が強く、「才能がある人間」と自分を思い込む傲慢さから「働かない」ことを哲学し?、わたしは一時彼の生活をささえていましたが愛想が尽き、若いころに別れ、それ以後まったく音信不通になっています。わたしの孤独な青春時代については何度も書いていますが、いくら書いても語りつくせず、いまだにあの青い時はわたしの人生にとってなんだったのかと思い返すこともしばしばです。しかしながら、それでも青い時はわたしの心に無数のとげをさしながらも、わたしの「ああ上野駅」、わたしの人生の出発の地でした。
その頃、わたしと友人の関心事はアメリカのポップアートとネオ・ダダイズムからシュールレアリスムへとさかのぼり、キリコ、マグリット、デルヴォー、ダリなどの画集やアンドレ・ブルトンの著作などを図書館で借り、ああでもないこうでもないと議論に明け暮れていました。
高校を卒業してから美術館にはよく行きましたが、頭でっかちな思い込からダダやシュルレアリスムと現代美術に偏っていて、マティスが大好きになった以外は近代絵画のほとんどを見逃してきました。
今回の美術館も一番のお目当てはシュールレアリスムでしたが、今まで名前しか知らない近代の巨匠の絵をダイジェストのように見ることができて、一人の画家の展覧会のような全体的な人間像にせまるものはないものの、わたしの偏った美術史観を修正するには充分に楽しめる展覧会でした。

この展覧会の呼び込みの一つのモネの「睡蓮の池、夕暮れ」(1916年/22年)は、幅6m、高さ2mの大作で、太陽の光を構成する7色を混色することなく画面上に置くことによって、自然の色彩を表現した分割(筆触分割」という手法で描かれた画面は観る角度や距離によって色彩が変化し、光の画家と言われたモネの集大成ともいえる作品で圧倒されました。ただ、会場の関係で仕方がなかったのでしょうが、展示されていたところがやや窮屈で、もっと遠くから全景が観れたら最高だったと思いました。
後はまったくのわたしの好みで、一番うれしかったのはイブ・タンギーの絵が一点だけあったことでした。日本では目立たない画家ですが、ブルトンが「もっとも純粋なシュルレアリスト」であると評したイブ・タンギーは、海底のような空間で骨片や小石のような物体が描かれているものが多く、シュルレアリストの中でも異色の存在でした。わたしも妻も高校時代から好きな画家で、シュールレアリスム回顧展などで出品される以外に実物を観たことがありません。今回もあまりコレクションを詳細に見ていなかったので、一点でも実物を見ることができてとても幸運でした。
そしてマチスの作品も2点あり、他にたくさんすばらしい作品はあったものの、タンギーとマティスのポストカードを買いました。
音楽、映画、演劇、舞踏などに引っ張られるように、現代美術も音の出るものや動きのあるものについつい心を奪われることが多い中、長い間タブロー画と遠ざかっていたわたしは、声も出さず、静かに対面するひとを待ちつづける絵画たちのメッセージを充分に読み取ることはできないのですが、その絵が描かれた時代の空気をまとっているそれらの絵たちが墓場の墓石ではなく、現代に生きるわたしたちの不確かな未来からの不気味で愉快な死者のようにも思えます。
とくに今回のような美術館所蔵の展覧会ならでは絵画との思わぬ出会いは、わたしの固定観念を丁寧にほぐしてくれるものでした。
豊能障害者労働センターのカレンダー「やさしいちきゅうものがたり」のイラストでお世話になっている松井しのぶさんと、わたしが豊能障害者労働センターに在職時にいつもお世話になり、今でももっとも信頼する一人であるMさんと三人で行きましたが、Mさんも絵を描いてきたひとなので、この日はわたしもアートなひとの仲間入りをさせてもらい、とても幸せな一日でした。松井さん、Mさん、ありがとうございました。

アンリー・ルソーの「X氏の肖像(ピエール・ロテイ)」の看板で遊んだのですが、やはりこれは恥ずかしいです。
ゴッホの「サント=マリーの白い小屋」の看板を背景に記念写真。

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