原発はわたしたちの日常にあるもっともおそろしい兵器

9月7日のさようなら原発1000人集会に参加しようと思います。

 戦後80年の今年は例年以上に原爆投下、無差別空襲、終戦(敗戦)にかかわるドキュメンタリーもドラマも多かったと思います。広島、長崎の原爆投下に至る日米の支配層の理不尽と、とりわけ日本の権力層が和平への道を探るにも「国民」ではなく「国体」護持が最優先だったことが改めて報じられました。
 「大東亜共栄圏」という謳い文句で国内の貧困を解消するための侵略と植民政策による無数の犠牲を生み、原爆投下と空襲でほぼ一年の間におびただしい死者とその後の差別に晒されながら今も後遺症に苦しむ人々、戦後もまた戦後民主主義の夢の下で朝鮮戦争から経済成長をはじめたことなど、ここ10年余りで明らかになってきた外交資料と記録と個人の証言でつづられたテレビ番組をみて、憤りとともに戦後生まれのわたしにも重い責任があると思いました。歴史という大きな記憶の中にしかわたしたちは存在しないのですから…。

 広島、長崎の被爆者たちの世代を渡る必死の闘いは、想像を絶する無数の死と原爆症との闘いにとどまらず、決してつくることも使うこともしてはいけなかった核兵器廃止に込められた「繰り返さない勇気」を類としてのすべての人間に訴え、悲惨の果てに未来のこどもたちに届ける切実なメッセージだと思います。
 そこには核兵器はだめで核の平和利用は許されるはずがありません。エネルギー政策というよりも原発を必要とする究極の理由が核兵器に転用することができるからなのだとすれば、原発は日常のそばにあるもっとも恐ろしい兵器であるとともに、もしもの時には真っ先に爆撃の対象になり、広島や長崎の悲劇がくりかえされるということでもあります。その意味をこめて、原発事故は途方もない犠牲と廃炉工事という悲劇的な経済とともに、地球がわたしたち人間に告げた最後の警告だったと思うのです。そもそも根源にある経済成長の誘惑から解放され、助け合いの勇気を育てるくらしと社会と世界と地球をこそ、未来は望んでいるのではないでしょうか。
 そんなことを思いながら、9月7日のさようなら原発1000人集会に参加しようと思います。