戦争で失った無数のいのちを背負った箕面忠魂碑訴訟の運動

古川佳子さんと神坂玲子さんと豊能障害者労働センターの思い出
11月9日の朝日新聞朝刊の大阪面に、今年5月に亡くなられた古川佳子さんの記事がありました。古川佳子さんは箕面の忠魂碑移設に公費を支出するのは違憲だとして起こした住民訴訟の原告の一人でした。2018年、古川さんが自伝的エッセイ「母の憶い、大待宵草・よき人々との出会い」を出版された記念の集まりがキリスト教団箕面教会で開かれました。わたしは在職していた豊能障害者労働センターの設立時から忠魂碑訴訟の市民グループに大変お世話になってきた関係で参加させていただきました。あらためて古川さんのお母さんの想いと共に、ご自身の歩んでこられた熾烈な日々のお話を聞かせていただき、胸が熱くなったことを思い出します。そこには、戦争末期に相次いで戦死した二人の息子を「是れに増す悲しき事の何かあらん亡き児二人を返せ此の手に」と生涯忘れることがなかったお母さんの憶いがありました。大阪地裁で画期的勝訴となったのち、「普通の主婦」だった古川さんは怒濤の日々を送ることになりましたが、そのなかで出会った、いまは亡きよき人々との交流を描いた感動のエッセイ集でした。
箕面忠魂碑違憲訴訟は、1975年に大阪府箕面市が箕面小学校にあった忠魂碑を移転させるための諸費用を市が負担し、忠魂碑の前で慰霊祭を行い、それに市教育長が参列したことに対して、市民が忠魂碑の撤去を求めた裁判です。大阪地裁一審の判決は、「箕面市が忠魂碑の撤去とその土地の返還を箕面市戦没者慰霊会に求めないのは違法」であり、「忠魂碑は宗教的施設であり、政教分離原則から判断して、市有地から撤去すべし」との画期的内容でした。しかし、その後の大阪高裁、最高裁では原告が逆転敗訴となりました。
数多くのバッシングを受けながらも日々を暮らす地域のなかでの異議申し立て
古川佳子さんは1927年大阪に生まれ、二男三女の次女で、兄二人は戦争末期に相次いで戦死しました。箕面の自宅近くの忠魂碑移設について、神坂夫妻の呼びかけで夫とともに違憲訴訟の原告の一人となりました。 市民運動の中でも、自分が住んでいる間近な地域での運動は、並々ならぬ覚悟が必要と想像できますが、「忠魂碑は軍国主義と天皇制ファシズムの思想を表現し宣伝するものであること、その忠魂碑の建立地は学校であり、子どもへの影響が大きい」と訴えたものでした。結局のところ今に至っても、領土拡張をめざして戦争を引き起こし、日本国内はもとよりアジアをはじめとする数多くのいのちを奪ったことに国はきっちりと謝罪しないどころか、先の戦争を肯定したり、軍事力を高めることを望む声がSNSなどで拡散され、それをすすめる政党が支持されたりする風潮が蔓延しています。
古川佳子さんたちの活動はSNSがまだなかった時代でしたが、遺族会をはじめ地域はもとより世論からも「忠魂碑を否定することは戦争で犠牲になった人々のたましいを傷つけること」と、はげしいバッシングを受けました。それでも、ひとりひとりのいのちには家族や友人とのつながりの中でこそ輝き、個の自由は決して国家をはじめとする社会的な集団によって奪われることがあってはいけないという彼女たちの強い信念でこの訴訟をやりとげました、その行動に勇気づけられたたくさんの市民たちが結集し、その裁判を支えました。
豊能障害者労働センターを障害者市民運動と認めてくれたひとたち
わたしは古川佳子さんと共に原告のひとりだった神坂玲子さんを通して忠魂碑訴訟について学びました。 神坂玲子さんとの出会いは1981年、たしか箕面の障害者運動の草分けだった「国際障害者年箕面市民会議」の集まりだったと思います。翌年の82年の春に養護学校を卒業する小泉祥一さんと、箕面市の共に学ぶ障害児教育の先頭にいて地域の中学校を卒業する梶敏之さんのふたりを市民生活の真ん中に迎え入れるために、豊能障害者労働センターの設立を準備していた時だったと思います。
障害者と言えば「福祉」か、家族介護をおぎなうボランティアの対象としか思われていなかった時代でした。わたしたちは経済的にも介護などの社会保障的にも、障害者が当たり前の市民として生きる権利を全うすることができないとすれば、それはわたしたちの社会が障害者に押し付ける差別だと思いました。そこで一般企業が雇用しないならば、障害のあるひともない人もともに働きともに暮らし、ともに経営する場として、豊能障害者労働センターを設立することになったのです。
しかしながらわたしたちの想いは当時のボランティアの人たちにも福祉行政にも、そして多くのご家族にも届かず「過激集団」とも言われ、多くの仲間がわたしたちから離れていきました。
その時に、わたしたちの活動を「福祉ボランティア」としてではなく、障害者の差別とたたかう市民運動として受け止めてくれたのが古川さんや神坂さんたち、箕面忠魂碑訴訟にかかわる人たちでした。
1982年、豊能障害者労働センターは阪急箕面線桜井駅近くの民家を借り、小泉さんと梶さんをふくむ5人で静かに活動を始めました。神坂玲子さんはその時に出資金(寄付金)をいただいた一人で、おそらく開いたばかりの事務所に寄付金を届けてくださった方も、ご近所に住んでおられた忠魂碑訴訟にかかわっておられた人だったと記憶しています。
当時のボランティアのほとんどの人から「あそことはかかわらない方がいい」とまで言われていた豊能障害者労働センターでしたがその中で星埜光子さん、立石もとさんたち数少ない市民とともに忠魂碑訴訟のひとたちからの応援が、どれだけわたしたちを勇気づけてくれたことでしょう。
箕面の今、日本の今、世界の今をも照らす市民活動の道しるべ
あれから40年、彼女彼らの多くがこの世を去って行かれましたが、箕面の市民運動の先頭を走り抜け、後に続く私たちの行くべき道を照らしてくださったことにただただ感謝しかありません。かくいうわたしも、豊能障害者労働センターを離れてすでに20年、今は能勢の里山に囲まれて静かな時間を過ごしていますが、昔話と言われても1980年代からはじまる箕面の障害者運動のかかわりで出会った数多くの人たちの切ない願いと祈りと悲しみと、そして孤立を恐れず走り抜けたその足跡は決して忘れてはいけないことだと思いますし、今を行き惑う次の世代に伝えていかなければならないと思います。
今の世の中がとても危ない道へと引きずりこまれようとしている中、沖縄のこともアイヌのことも知らず、わたしが信じていた戦後民主主義の下での自由、権利、平和、助け合い、ゆめ、希望、正義とはいったい何だったんだろうと自戒をこめて思います。砂上の楼閣だったのかもしれない戦後民主主義、それを信じたからこそささやかな行動をしたことも…。そしてわかり合いたいと思う心が相手を抑えつけたりしていたのではないか、などなど自省の念にさいなまれることも多々あります。
しかしながら世評にひるまず、戦争で失ったいとおしいいのちのひとつひとつを想い、悲しみを越えた絶望を胸に秘め、何億の個の果たせなかった夢を背負いながらたたかった忠魂碑訴訟の運動は、今も箕面のみならず日本社会の人権と市民活動の希望であり続けることでしょう。


