「盲導犬」その2

なぜそんなに飢えるのか
俺のファキイル
なぜそんなに影をにくむのか
俺の犬

絶対服従を求められる盲導犬と、絶対不服従の幻の犬・ファキイル…。古田新太演ずる影破里夫と小出恵介演ずるフーテン少年が歌うテーマソングは、時代の風や臭い、そしていくつかの切なくも悲しい物語、さらにはこの芝居の密室から解き放たれた後の、受け継がれていく希望が入り混じった感動的な歌でした。

テント芝居のスピートが有無も言わさず観客を芝居の渦にのみこんでいくのに比べて、今回の芝居は最初違和感を持った劇場の空間によるのか、蜷川幸雄の絶妙な演出によるものなのか、役者の存在感によるものなのか、それともそのすべてが理由なのかはわかりませんが、役者たちのセリフがよく届き、物語を追いかけることができました。
わたしは以前に一度この芝居を見ていたのですが、今回あらためてこの幻の盲導犬が澁澤龍彦の小説「犬狼都市」で、犬狼一族と対立する魚一族の令嬢と交わる高貴でエロチックな狼・ファキイルがモデルであることや、ヒロインの銀杏とタダハルと亡夫とのもう一つの恋物語が、泉鏡花の「化銀杏」から来ていたこと、そして明治から昭和、戦後から1970年代へと、日本のアジアでの収奪が軍服から背広に着替え、経済進出という形でより進化したことなどが芝居の底流にあることがわかりました。
それでも、この芝居の難解さが解消されるわけではありませんが、わたしはわたしなりにこの芝居の物語を追いかけてみて、感じたことを書いてみようと思います。

一方には盲導犬に絶対服従の訓練をしながら、みずからも国家や社会へ服従することを訓練されている盲導犬学校のひとたちや自警団がはみ出し者を排除しようとします。もう一方には反戦フォークゲリラの砦であったり、ホームレスの人たちの住処でもあった新宿西口広場を思わせる地下通路に集まってくる盲人・影破里夫とフーテン少年、銀杏たちがいて、コインロッカーの向こうにそれぞれの「約束の地」に思い焦がれ、国家そのものである盲導犬学校の先生、銀杏の亡夫、自警団と対置しています。
盲人・影破里夫は絶対服従の訓練をされた盲導犬ではなく、あえて主人のいうことを聞かない絶対不服従の幻の犬こそが自分の盲導犬だと言い、盲導犬学校の教師をはじめとする自警団と真っ向から対決していくことになります。
銀杏はかつての恋人の思い出を亡き夫によってコインロッカーに封印されています。亡き夫はアジアでの経済収奪を進める商社マンだったようで、バンコクの愛人・トハに銃殺されたのでした。銀杏と影破里夫との出会いによって物語が化学反応し、まだ見ぬファキイルの遠吠えが鳴り響くと、盲導犬学校の教師は銀杏の亡き夫となり、立ちはだかります。
「分かったかい、お前は海峡に迷う俺を導く盲導犬だ。いつかトハが撃った弾が、わたしの頭を撃ちぬいて私の国に向かっている。そしてお前の撃っただろうあの幻の弾もそれにお返しするように南に向かっている。それが同じ航路をたどるものだから、弾ははじけて、そこに燃えるのが犬の毛さ。そのうち風の間に間にゆれるこの犬の毛が一斉に燃え出して、私たちと同じような旅人が、一斉に私たちの後を追うだろう。そうなんだよ。きっとそうなる。そしたらもう、私たちは一つもさびしくないんだよ」。
木場勝己の謎めいた長セリフが感動的ですが、この時、銀杏もまたいつのまにか愛人・トハにもなり、そして亡き夫に胴具で拘束されます。その胴具の片方を亡き夫、もう片方を影破里夫が持ちます。片方は国家として、片方は自由と解放を求める多様な人々の代表として…。
影破里夫とフーテン少年が亡き夫でもある盲導犬の教師にあおられた自警団によって暴行され、爪をはがされると、その爪こそが封印されたコインロッカーの鍵となります。開かずのロツカーが開き、コインロッカーが半分に割れ、後方に開くと、そこには血の色で真っ赤になった太陽と、せき止められていた南の海から波が押し寄せます。そして、まるで銀杏の体から飛び出したように幻の犬・ファキイルが銀杏ののどを噛み切り、一瞬、観客席をぐるっと一回りして飛び去って行き、遠吠えが劇場に轟くのでした。
その遠吠えに重なるように、声が出ないはずの銀杏が叫びます。「ファキイル!」。

1960年代後半のことでした。わたしはビルの清掃員をしていましたが、街に出ると学生運動家たちが「アジ演説」をしていました。「日本帝国主義打倒、人民勝利」と棒読みのような演説をしている同世代の学生に、わたしはたずねました。
「あなたが言っている人民の中に、ぼくも入っていますか? 大学生でもなく労働者階級とも違う気がするし、ヒッピーとも違う、こんな何者か自分でもわからない人間でも、革命後の労働者階級の独裁による国家の一員なのですか? それとも、あなたのいう革命によって打倒されるべき人間なのでしょうか」。
そう質問するわたしの中に小さな悪意がなかったといえばうそになりますが、ほんとうに彼らが声高く何度も叫ぶ「人民」の中に、わたしが入っていないと思っていたのでした。
「盲導犬」の芝居空間の中に身を置き、わたしはフーテン少年とタダハル青年に40年以上も前の「何者かになりたいと願いながら何者にもなれなかった者」の鬱積した心情をダブらせていました。そして、「ファキイル」こそが時を越えていまも世界の人々が夢み続け、切望する革命家でありつづけることを、影破里夫もまたファキイルの同志であったことを知りました。この革命は「人民」によるものではなく、世界の多様な雑民たちによって静かに進められていて、その中にわたしもまた参加できることも…。
ファキイルはそれを望む人々によって、今もまだ、いや今こそ雄叫びとともにコインロッカーの彼方の南の海からやってきます。この40年の間に世界を席巻するグローバリズムの嵐の中で、毎年3万人のひとが自らの命を絶ち、非正規雇用が4割にもなってしまったわたしたちの社会は、すでに絶対服従をせまる国家すらその一部でしかない大きな帝国の中にあり、のどを噛み切られた銀杏のように声にならないひとびとの悲鳴は、ファキイルの遠吠えとなって堰を切る寸前にあるのだと思います。
「盲導犬」は古くて新しい演劇で、唐十郎と蜷川幸男の未来への挑発でもありましたが、その挑発をそれぞれの肉体で体現した宮沢りえ、古田新太、木場勝己をはじめとする役者のみなさんのすばらしさも特筆ものでした。個人的には最初は少し声が出ない感じでしたが、フーテン少年の小出恵介にとても惹かれました。
小出恵介はテレビドラマなどで観ていて以前より好きな役者でしたが、もしかすると蜷川幸男がこの芝居に託したものは、この役者のためにあったのかも知れないと思いました。

ここ2週間ほどライブや芝居、テレビドラマなどを見て感ずるところが多くあり、どれから書こうか迷うほどでしたが、今日から長い夏休みに入るので、少しずつ書いていこうと思います。
次回は4日に「盲導犬」を観に行くために録画しておいた島津亜矢を何度も見聞きし、その感想を書こうと思っています。

舞台「盲導犬」フォトコール・囲み取材/劇中の一部のシーンを公開

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です