劇場で見た「盲導犬」・唐十郎作、蜷川幸雄演出

8月4日、大阪城ホールのそばのシアターBRAVA!で上演されている唐十郎作・蜷川幸雄演出「盲導犬-澁澤龍彦「犬狼都市」より-」を観ました。
唐十郎については何度かこのブログでも書いていますように、わたしは年に一度大阪にもやってくる唐組の芝居を見るのが楽しみで、今年も扇町公園での芝居を観に行きました。
わたしが唐十郎の芝居をはじめて観たのは1974年、状況劇場が大阪の天王寺野外音楽堂で「唐版 風の又三郎」を上演した時でした。当時は李礼仙、大久保鷹、不破万作とともに、根津甚八と小林薫が人気を集めていました。
状況劇場が解散し、唐組となって久しいですが、それ以来毎年やってくる唐十郎の芝居をほとんど観てきましたが、直後でもあらすじすらあまりつかめず、どんな芝居だったのかわからず、後になるとどれひとつ覚えていません。時々、唐十郎の芝居ひとつひとつにくわしいコメントや解説をしてくれるブログを読み、そうだったのかと納得したり、自分の感受性と知識のなさを悔やむのが正直なところです。
唐十郎の芝居の空間である紅テントの中にいると、わたしの心と体からもうひとりの自分が現れ、そのもうひとりの自分が唐組の役者たちの中に溶け込んでいくような不思議な感覚になります。そうなってしまうとたとえ筋書きも芝居の背景も知らなくても、すでに観客ではなくなってしまったわたしは、不条理でも不可解でも理不尽でも、うろうろぼろぼろしながらも、唐十郎がおいでおいでしている薄暗闇のかなたへとつき進むしかなくなるのです。そして、大団円を迎えると密室空間がぽっかりと開かれ、登場人物が現実の街の夜へと消えていこうとする時、わたしはテント小屋の中にもう一人の自分を置き忘れたまま、登場人物が消えて行った現実の街へと帰っていくのでした。
そして、もうひとりの自分は私の心の中の紅テントで違う人生を生きていて、わたしはまたもう一人の自分と再会するために、唐十郎のマントが翻る紅テントの中へと迷い込むのでした。

今回の芝居「盲導犬」は1973年、演劇集団「桜社」を旗揚げした蜷川幸雄のために書き下ろした作品で、東京・アートシアター新宿文化の映画終了後、石橋蓮司、緑魔子、蟹江敬三、桃井かおりなどにより深夜に上演されたと聞きます。
1973年と言えば、安保闘争、大学紛争、ベトナム戦争、アメリカ公民権運動など、世界も日本も激動の時代だった1960年代が足早に去って行き、街も社会も人の心も何事もなかったように高度経済成長のジェットコースターに乗り込む一方で、赤軍派のよど号ハイジャック事件、連合赤軍事件などの武力闘争や、三里塚闘争のようにより大衆的でよりラジカルな抵抗が国家に対置したりと、社会の傷口がパックリと引き裂かれた時代でもあったと思います。
1989年に一度再演がなされているものの、今回の再演では劇中で使用する曲も初演時のものに戻し、70年代当時の空気をより色濃く再現されています。
「40年前は地下街のコインロッカーの前をうろついている怪しい人たちがいて、町は自警団を作って彼らを追い出した。今はどこも清潔で明るいけど、社会から疎外された人たちは形を変えて存在している。だからこそ、不服従の魂を今見せたいんだ」(蜷川幸雄)。

所は新宿、コインロッカーの前で、盲人の影破里夫(エイ ハリオ・古田新太)は、”不服従”の伝説の盲導犬・ファキイルを呼んでいる。婦人警官に補導されかかっていたフーテン少年(小出恵介)に出会い、自分の代わりにファキイルを探してくれるように依頼する。衝突しながらも次第に、奇妙な絆を結ぶ二人。
そこへ、開かずのロッカーを開けようとする女、奥尻銀杏(オクシリ イチョウ・宮沢りえ)が現れる。鍵を持つ夫は南国で現地の女・トハに殺害された。ロッカーの中には、銀杏の初恋の人・タダハルの手紙が入っている。
銀杏は昔の夢が忘れられず、毎夕、ラジオに思い出の曲をリクエストしている。流れる<カナダの夕陽>。
盲導犬学校の教師になるべく研修中のタダハルが現れ、再会を果たす二人。そして、盲導犬学校の先生はいつしか、銀杏の亡夫として現れ、銀杏に犬の胴輪をはめて彼女を盲導犬にしてしまう。
犬の毛が飛び散るなか、突如現れた自警団たちにリンチを受ける破里夫の爪でロッカーの鍵が開く。
南国の海が広がる。ロッカーの中から、探し求められていた黒い犬が飛び出し、銀杏の喉笛を噛み切って走り去る。鮮血にまみれた銀杏は何度も犬の名を叫ぶ。「ファキイル!」

どんな芝居でもそうですが、とくに唐の芝居は物語のあらすじをたどっても何の意味も持たず、その場にいたものですらどんな芝居だったかを説明できないことがほとんどです。
そのうえわたしの場合は、いつものテント小屋での唐組のオリジナルか、同じくテント芝居の新宿梁山泊しか観たことがなく、劇場で芝居を観たのは最近では島津亜矢の座長公演しかありません。
ですから、大きな劇場で舞台全面に渡る長い壁のようなコインロッカーの前で、少ない登場人物が放つ謎かけのような言葉たちに、正直に言うとテント芝居では感じないある種の違和感を持ちました。小さなテント小屋ではその言葉の氾濫が物語をつぐむだけではなく、芝居そのものの空間を生み出すのですが、今回の場合はいつものなじみの役者さんではなく、古田新太、宮沢りえ、小出恵介によって発せられるそれぞれのセリフがからみあう前に、背景のコインロッカーに吸い込まれていくようで、昔テレビで見たヨーロッパの会話劇のように感じました。ただひとり、木場勝巳だけは初演でも演じた銀杏の夫と盲導犬学校の教師の不気味な雰囲気を漂わせていましたが…。
といって、つまらなかったのかと言えばそうではなく、おそらく蜷川幸雄の演出によるところなのでしょうか、ゆっくりしたテンポのせりふがわたしの心の中に回収されることで、いつもよりわかりやすい芝居になっていて、不思議な感動を覚えました。

この日録画した「BS日本のうた」島津亜矢のことや山田太一のドラマのことなど、わたしの筆力がなく追いつけませんが、この芝居の中にまだもうひとりのわたしがさまよっていて、なかなかこの芝居から抜け出せません。次回にもう少し書かせてもらいます。

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