河野秀忠さんの私的「障害者解放運動」放浪史を掲載します。

取材だ、講演だと、マイナーだけれど全国各地の障害者市民を訪ねる機会に恵まれていると、ためいきながらも、用心深く選ばれた生の声、言葉の行間に匂い立つ本当のことに出会うことが多い。それらは、大状況から急降下爆撃される言葉の爆弾の威力を持つことはないけれど、日常のゴロゴロあることのひとつとして、語られ、各自のありのままの肉体の底に沈殿するものとしてあるために、ボクは自分を問われ、感激したり、呆然とさせられたりもする。その実際あることを、むつかしいけれど、こどもたちに伝えようと、風のようなつぶやきを、文字に転写しただけかもしれない。「こころよ、つながれ」と……。(「ゆっくりの反乱」河野秀忠著 1999年)

市民運動と共にある市民になる運動。人生の先生のひとりだった河野秀忠さん

 わたしが障害をもつ人たちと出会ったのは1980年、33歳の時でした。当時豊中北部に住んでいたわたしは隣町の箕面で、障害当事者、障害児者の親、福祉関係者、ボランティアの人々を含む市民によって結成された国際障害者年箕面市民会議の集まりに参加したことがきっかけでした。障害者の問題は障害を持つというだけの理由でその困難を押し付けている街や社会の問題であり、障害者に対する差別を増殖させる国や街の行政システムをも市民参加で変えていこうと行動を起こした市民会議の想いは、その後の長い時をへて箕面市民参加条例に内包され、市民活動の拠点となった箕面市民活動センターにつながっていると思います。
 市行政と対置し、市民による市民のための街づくりの草分けのひとつだった国際障害者年箕面市民会議の活動は、箕面市のさまざまな市民活動・市民運動とともに、切実に障害者が「市民」になる歴史を切り開いたといっても過言ではないでしょう。その長い年月をかけた障害者の運動に立ち会い、たたかってきた中心に、河野秀忠さんの存在がありました。
 河野さんとわたしのかかわりは1982年に設立された豊能障害者労働センターの活動を通じてでした。豊能障害者労働センターは、箕面市民会議の支援のもとで当時の養護学校高等部卒業を控え、施設か在宅しかないという理不尽な選択を迫られたひとと、地域の小中学校の共に学ぶ教育を切り開いた運動の先頭にいたひと、くしくも真逆の子ども時代を過ごしてきた二人の脳性まひの障害者の働く場、生活の場として誕生しました。
 当時も今も経済成長を求める社会は、イノベーションと労働生産性と消費市場のらせん階段を上り続けなければなりません。富をつくりつづけるために、働く個人の能力もより厳しく精査されることになり、競争原理に追いかけられる日々が続きます。その状況は障害者にも襲い掛かり、過酷な労働市場から弾き飛ばされることがほとんどです。
 豊能障害者労働センターのひとたちには大きな夢がありました。障害のあるひともないひともともに働き、ともに経営を担い、お金を分け合いながら、彼女彼らが見た夢は障害者があたりまえの市民として暮らせる街をつくることでした。それは共生社会、協同労働組合など、「アソシエーショニズム」と言われるものですが、彼女彼らにはまだそんな言葉は届いていませんでした。届いてはいませんでしたが、彼女彼らが見た巨大な夢はとてもステキな夢でした。
 そんなことが実現するはずはないと、ボランティア活動をしていたまわりの人たちは去って行きました。それでも彼女彼らはその夢が絶対にまちがっていないと信じて、あきらめませんでした。

豊能障害者労働センターの誕生は果てない夢への冒険だった

 60年代の部落解放運動、組合運動、反戦平和運動を経て70年代からの障害者解放運動に立ち会ってきた河野秀忠さんにとっても、障害当事者を単なる利用者とする福祉作業所でもなく、また一部の障害者しかたどりつけない一般企業でもない豊能障害者労働センターの存在は、地域活動の拠点として自他ともに誇りとするもので、だからこそ長らくその代表をつとめてくれたのだと思います。
 河野秀忠さんは障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」の編集長でしたし、障害児教育教材絵本「あっそうかぁ」、「あっ、なぁんだ」他多数の本の著者でもあり、全国の障害者運動のかかわりも広く深く、後の被災障害者支援「ゆめ風基金」の提唱者のひとりでもある知る人ぞ知る有名人でもあるのですが、箕面での障害者運動や人権運動を経て、箕面市行政の施策にも力を尽くした人でした。
 1980年に知り合ってからたびたび、センターのスタッフといっしょにお酒を飲みながら70年代の障害者運動の話や、講演先での出来事や人々の話など、彼の独特の語り口に魅せられて聞いていました。あの頃、月末になると河野秀忠さんがやってきて豊能障害者労働センターの運営会議が始まるのですが、障害者スタッフをふくむ総勢6人に運営委員2、3人が参加し、障害者スタッフの生活状況から粉せっけんの販売状況、そしていつも真っ赤っ赤の会計報告と半月遅れの給料遅配など、傍から見れば楽しくないはずのこの会議が当時のわたしたちの楽しみのひとつでした。
 というのも、箕面の町からほとんど出たこともなく、月に一度やって来る河野さんが全国の障害者運動の話や、1970年代から始まる障害者解放運動の歴史、そして時には60年安保、70年安保闘争、労働組合運動からマルクス、レーニン、トロツキーのことを、まるで新作落語のような語り口で物語ってくれるのを楽しみにしていたのでした。運営委員を名乗り押しかけたわたしは、ドイツの革命家・ローザ・ルクセンブルクを河野さんから教えてもらいました。
 そんな宝物のような稀有の時間を積み重ね、障害者スタッフとの付き合いを深める内に、わたしも仲間になりたくて1987年、豊能障害者労働センターの専従スタッフになりました。
 それから2003年の暮れにセンターを去るまでの年月は、愛おしいお金を求め、果てない夢だけをたよりの嵐の日々でしたが、ほんとうに幸せな時間で、わたしの人生の宝物です。

第14稿から28稿で散逸、第50稿までしかありませんが、河野秀忠さんの残した言葉をかめしめて…。

 1995年、豊能障害者労働センターの機関紙「積木」の編集をしていたわたしは、河野さんの豪胆に見えて繊細な心のひだを通した障害者問題に関わる個人史をシリーズで書いてくれないかと依頼しました。河野さんにとってもこの提案はタイミングがよかったのかも知れません。こうして1995年10月6日発行の豊能障害者労働センター機関紙「積木」に「私的障害者解放運動放浪史」の第一稿が掲載されました。
 このシリーズは後でまとめられ、2007年にNHK出版から「障害者市民ものがたり: もうひとつの現代史 (生活人新書 210)」(NHK出版)として出版されました。
 2017年、河野秀忠さんはこの世を去りました。
 実はわたしの手元に退職した2003年までの間に依頼したこのシリーズの生原稿ファイルの一部があり、豊能障害者労働センター機関紙「積木」編集部の快諾を得ましたので、このブログに転載したいと思います。第14稿から第28稿までそっくりないのと第50稿までしかありませんが、河野さんの個人史を独特の語り口で綴った文章をもう一度読み直し、人生の先生のひとりだった河野さんの残した言葉をかみしめたいと思います。