私的「障害者解放運動」放浪史(その1)

●障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」 編集長・河野秀忠

1995年10月6日 豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.84掲載

●ボチボチとネ

 豊能障害者労働センター機関誌「積み木」に執筆せよとの、担当者からの脅迫があった。その結果、前任者は、順正女子短期大学の杉本 章さんであったから、ちょっと尻込みしつつのおっかなビックリで引き受けることにした。杉本さんのような、精緻で明快な論調、事実を正確に把握した文体には及びもつかないことは、読者のみなさんにあらかじめお詫びしておいての上である。
 それに生来のアバウトな性格が災いして、ボクの脳ミソに栄養を供給してくれたり、ヒリヒリと全身の筋肉を緊張させられたりした、あのこと、このことが、時間がとめどもなく流れて、アクセク日毎を送別することに追われていると、肉体と精神の何処にというわけでもなく、ところきらわずに沈没したり、霧のように淡い形になってしまったりしてしまうのである。
 しかしながら、馬齢の重ね方が42度の風呂の湯(エエ加減)的であっても、それはそれで趣というものが確かにある。その影のように不確かな、私的なものがたりが他者になにごとかを伝えられるとしたら、そのチャンスをみすみす逃すことは、来し方の時間のなかで、秘に呼吸している事柄を辱めることになるのではあるまいか。
 どこからどこまでとか、いつまでとか、そういうことに全く関係なく、読者のみなさんが「もうヤメてくれ」と激怒されるまで、ボチボチと、過去に暖かい血流を知覚させられたものがたりを、大袈裟な歴史というほどではなく、時間と風の流れに思念を添わせて書きつけて、読者のみなさんに眼精疲労の快さを無理矢理宅配便したい。

●勝手な私的歴史を語ること

 ひとには、それぞれに固有だけれども、多面的で複雑な関係を従えたメモリィがある。それは意識しようが、しなかろうが、それぞれにとってかけ替えのない事柄と時間であるだろう。それほどに大切な個々のメモリィなのに、そのメモリィの構成部品が、どこから来て、どのような人達によって伝えられたのかに、ボクを含めおおくのひとびとは存外に鈍感であるように感じられるのはどうしてだろうか。ボクたちの業界でもある「障害者運動」の世界でも、障害者市民の差別と孤独に抗して築き上げられた、連綿の奮闘を訪ねる作業はあまりにも少ないように想う。
 「温故知新」と古人もいう。ボクたちの作業所や事業所、様々な活動体には、古漬の輩や漬物石のかびのような(ボクのことかも?)輩もいるけれども、最近になって障害者仲間や健全者仲間の若年化が進んできた。
 ジェネレーションギャップなどと、一言では片づけられないくらいに、新しい仲間が跳りょうバッコしているのである。それらのひとたちに押され、抑圧され、もみくちゃにされながら、それはそれで結構楽しいことなのだが、「フーン!」と感じ入らせられることもある。
 例えば、阪神大震災の折り、それぞれの障害者団体が総力を挙げて、被災障害者市民の救援に突入したのだけれど、その行動パターンは、グループとしての活動ではあるが、ひとりひとりのキャラクターが刻印されて、実に多彩なものであった。これらは、浅いけれども確実に形成され、具体した障害者運動の行動パターンとは、ひと味もふた味も違うように、ボクの眼には映った。
 新鮮で、古いことわりにとらわれない、自在の感覚が育ち、新しい、その事柄に関わったひとたち固有の歴史が始まっているのだなと、なにかしらがボクの脳に浸透してきた。客観的には、それらの行動は、過去の障害者運動の尊敬されるべき先達の、思念と想念、哲学の成熟に他ならないのだし、ボクにとっては、うれしい事柄なのだけれども、そのひとつひとつを岡目八目で、斜め見学していると、どうも先達とはカンケー無いような気配が漂うのである。
 「そんなコトは知らん」といわれれば、それまでのことなのだが、それはヤッパリ不幸で切ないことではある。類としての人間が、類としての歴史を放棄もしくは、歴史に関心を示せないとすれば、ひとびとは孤立と断絶を食べ続け、マイノリティは、絶対的連帯とあるがままの解放に到達することはありえないだろう。それにもっと恐ろしいことは、そのことによって、ボクたちの未来でもあるこどもたちと地域と世界に、語り伝えるべき意味と心、熱情と愛、自己決定されたアイデンティティを失うことになることなのだ。
 とまぁ、大上段のものいいはするけれども、ボクは、ひとを信頼していることをタテマエにしているから、「だいじょうぶ!」とこまねずみのような若い輩たちに寄りかかって、風と一緒に流れているだけなのだから情け無い。そのようなボクにも、チャンスがドアをノックしてくれたのだから、伝わるかどうかは、薄氷のごとく心許無いけれども、語らなければなりますまい。
 これが、まぁワケといえばいえる、根拠として、この欄が始まっちゃうのである。

●最初に出会ったヤツ

 1972年に、ボクは劇的な出会いをする。「さようならCP」という16ミリ・モノクロ映画がそれである。
 それまでボクは、いわゆる左側の世界専門で、高校生どもと心中するがごとく、17歳からお付き合いしてきた組織たらいうものから追放され、浮き草無頼稼業中であり、1963年に起きた「部落差別・冤罪・狭山差別裁判」に続く、1969年「差別裁判に抗議する6名の部落青年らの浦和地裁占拠闘争」に強く誘発されていた。
 その活動の中で、O君というSP(ポリオ)の障害を持つ青年と出会った。このO君が、ボクが大人になって初めて、「障害者」と意識し、面と向かい合ったひとだった。ボクの方が年上だったけれど、ウマが合った。なんでも話し合うことができたし、最近でも時々、ボクの事務所に顔を出し「オッサンはいつまでも元気やのォ」と、自営業の苦労を隠して笑わせてくれる。
 当時O君は、ひとりの女性と恋仲になっていたが、その女性は妊娠していて、こどもの父親はO君ではなく、別れた以前の恋人だった。障害があることで彼女を幸せにできるかどうかを議論したこともあったけれど、こどものことでは、極端に臆病になっていた。
 「彼女を好きになったンは、お腹のこどもも込みやろ。こどもはイラン、彼女だけほしいいうンは、調子よすぎるデ」と、話しかけたことを、ヒリッと覚えているが、今のO君の笑顔が全ての答えとなった。
 その彼が「部落差別と闘うことの大切さはよ~お分かるし、自分なりに関わってきたンやけど、なんかシックリせえへンねン。忘れ物してるようで・・・」とつぶやいた。そのつぶやきが消えない瞬時に、ボクたちは、「障害者解放の会」と「障害者の闘いを支援する会」の2つのひとり会を作った。活動は、ビラ貼りばっかり。1971年のことだった。そして、運命的な映画とバッタリ!

河野秀忠
1942年大阪市生まれ。中学卒業後、酒屋の店員・トレーラーの運転手などをしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組む。
1971年に障害者の友人を得て、障害者市民の自立と解放の活動へ。脳性麻痺当事者組織「青い芝の会」を取材した「さようならCP」の上映運動を始め、以後、障害者映画の制作・上映運動、優生保護法反対運動、養護学校義務化阻止闘争に取り組む。1973年、障害者問題資料センターりぼん社を設立。1979年、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』を発刊、編集長となる。1982年、豊能障害者労働センターを創設、代表となる。1995年、牧口一二と「民間障害者市民復興計画委員会ゆめ風基金」(2005年「特定非営利活動法人ゆめ風基金」、2012年認定NPO法人)を創設、副代表となる。
『そよ風のように街に出よう』は2017年7月発行の第91号で終刊した。同年9月8日、脳梗塞で死去した。享年74歳。
著書:『ラブ - 語る。障害者の性』(共著)、障害児教育創作教材『あっ、そうかぁ』『あっ、なぁんだ』『ゆっくり』『しまったぁ』、『ゆっくりの反乱』など。