私的「障害者解放運動」放浪史(その2)

●障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」(2017年終刊) 元編集長・河野秀忠

1995年11月19日 豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.85掲載

●コドクの栄光

 観念のみでも活動はデケル。O君が代表の「障害者解放の会」と、ボクが代表の「障害者の闘いを支援する会」といっても、要はふたりだけの連合体で、会合だ、相談だといっては酒精のお世話になる。
 障害者市民が差別を受けているという事実は、O君の体験からもダイレクトに伝わってきたし、いろいろワケ知りに聞く話からも確実なのだけれど、とにもかくにも70年代初頭のことである。70年安保闘争の熱気がまだ湯気を残した街のどこを見回しても、ボクたちと付き合ってくれる、奇特な障害者市民なぞは見当たらない。というよりも、障害者市民が街にいなかったのである。
 関東ならいざ知らず、関西では大方の障害者市民は、収容型施設か在宅という深窓の捕虜生活の谷間で密やかに呼吸しているのが常態だった。(現在でもそのシッポは色濃くある)例えば、養護学校卒業生名簿に導かれて、在宅生活の障害者市民を訪ねても、「ウチには、そんな障害を持った子供はいません」と、ピシャリと扉を閉められてしまうことが何度もあった。現在、障害者運動のリーダーでもあるM君も、最初に訪ねた折は、母親がそういう対応だった。
 そのような、どうにもこうにもブルドッグ的状況のなかで、コドクな連合体はなす術を持たなかったが、元気だけはテンコ盛りで青白い精力を放射していた。つまるところ、夜の闇のみが味方で、昼の間にせっせと刷ったガリバン刷り(懐かしいなァ)のポスターと糊バケツを小脇に抱え、アテのない敵を求めて出撃する。実に甘チャンであったのは、「敵はどこかにいる。このポスターを読んで理解してくれる味方もまたどこかにいる」と、本気で信じていたことだった。ボクたちのポスターをながめるひとびとこそが、障害者差別を痛みとして引き受け、なんとかしようとする(実感はうすら寒い程度のものだったけれど)ボクたちに、ポスターを貼らしめていることに、鈍に感だったのだ。
 出撃すると、時々オマワリさんと遭遇し、屋外広告物条例違反の容疑(確信犯なのダ)でお世話になったが、コドクな観念は、国家権力との対決者としての誇りを選択する。捕まるたびに意気は天を衝き、ボクたちの活動の正当性がますます証明されたような気がした。コドクな観念にとっては、オマワリさんすらオトモダチなのだ。

●快男児・八木下浩一

 当時、大阪市住吉区の下町に、青麦印刷があった。この青麦印刷の代表者は、以前に東京に住み、大阪での障害者福祉の拠点として印刷所を開いていた。(後に事業の失敗と福祉サギに合い解散した)「映画・さようならCP」の原監督の友人でもあったこの代表者に、なんとなく紹介されたのが、今日に至る友人となった快男児・八木下浩一だった。
 八木下は、ボクと同じ42年生れで、歩けるけれどアテトーゼの強い脳性マヒ者である。ボクが安保だ、反戦だと、正しいけれど青い匂いに夢中になっていた67年、埼玉県川口市で、就学猶予(就学猶予、免除・障害を理由として義務教育を受けなくてもよいとする制度。まぁ、ありていにいえば、障害児は学校にきてはいけないということを恩着せがましく規定した差別制度・この制度規定は現在でも生きていることをお忘れなきよう)によって普通学校に就学できなかったのは、明確に障害者差別であるから小学校に入学させろと要求していた。
 この動きは、全国的にも注目を集め70年に小学校への八木下編入をもって、一応の収束をするが、当時の世間では、障害児の教育要求といえば、養護学校設置要求が主流である。全国の教育現場や教育委員会は、電流にふれたように身震いしたし、今日の「障害児も地域、校区の普通学校に通う」ことを目的とする様々な活動のルーツであったといっても過言ではない。
 この八木下が、ボクたちのコドクな観念を解き放った。八木下の就学運動講演会を連合体で開こうということになったのだ。
 初めて八木下と対面した時、開口一番「なんで俺を呼ぶんだよォ」と、分かりにくい言葉でスゴむ。ボクは応えようがなくて「オモロそうやからや」と、やっと探り当てた言葉を投げた。八木下がニヤリと笑い、ボクも笑ってなんとなくお互いにホッとした。
 71年・この講演会は大成功だったが、後にも先にも連合体の事業はこれだけで、以後、府中療育所闘争・「映画・さようならCP}上映運動へ連合体は溶けて行く。

河野秀忠
1942年大阪市生まれ。中学卒業後、酒屋の店員・トレーラーの運転手などをしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組む。
1971年に障害者の友人を得て、障害者市民の自立と解放の活動へ。脳性麻痺当事者組織「青い芝の会」を取材した「さようならCP」の上映運動を始め、以後、障害者映画の制作・上映運動、優生保護法反対運動、養護学校義務化阻止闘争に取り組む。1973年、障害者問題資料センターりぼん社を設立。1979年、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』を発刊、編集長となる。1982年、豊能障害者労働センターを創設、代表となる。1995年、牧口一二と「民間障害者市民復興計画委員会ゆめ風基金」(2005年「特定非営利活動法人ゆめ風基金」、2012年認定NPO法人)を創設、副代表となる。
『そよ風のように街に出よう』は2017年7月発行の第91号で終刊した。同年9月8日、脳梗塞で死去した。享年74歳。
著書:『ラブ - 語る。障害者の性』(共著)、障害児教育創作教材『あっ、そうかぁ』『あっ、なぁんだ』『ゆっくり』『しまったぁ』、『ゆっくりの反乱』など。