オリンピックに思う

ソチオリンピックのフィギュアスケート男子の羽生選手が金メダルを獲得し、テレビも新聞もこのニュースでもちきりですが、とにもかくにも羽生選手の活躍を素直に喜びたいと思います。わたしが喜んだからといってそれがどうしたと言われるでしょうが、子どもの頃から体育もスホーツも苦手なわたしからすれば、神業としか言いようがない演技(?)に驚きと称賛の気持ちを抑えることはできません。
わたしはオリンピックで「日の丸を背負ってたたかう」と思い詰めた選手の表情を観るのがつらいと感じ、選手たちの生身の体と心に国家の力を反映させ、国民であるわたしたちもまた国の代表として選手たちの活躍を期待してしまうことにいつも違和感を感じてきました。
今回のオリンピックにおいても「明治天皇の玄孫」竹田恒泰氏による選手への「注文」が議論を呼んでいます。竹田恒泰氏は自身のツイッターで、「予選落ちしてヘラヘラと『楽しかった』などと語った選手」を問題視し、「日本は国費を使って選手を送り出しています。選手個人の思い出づくりのために選手を出しているわけではありません」と発言しました。「世界の舞台で活躍するアスリートには、日の丸を背負った自覚をもって立派に振る舞って欲しい」という主張に賛同する人々も多いと聞きます。
しかしながら、わたしはどうしてもそんな考えに同調することができません。
スポーツが単なる「する」人の健康や生きがいの助けとなるだけではなく、より早くより高くより深くより美しく人間の限界への挑戦という大きな夢をアスリートとよばれるひとびとに求め、驚きや感動やメッセージを届けられるエンターテイメントとしてもあることが決していけないこととは思えないのですが、その輝きを獲得するために想像を絶する努力を続け、その上に稀有の才能と運にめぐまれてはじめて報われる栄光はあくまでも彼女たち彼たちのものであって、国のものではないのはわかりきったことではないでしょうか。ましてや、不運にも結果が伴わなかった選手たちに対して謝罪を要求したり「金を返せ」とまで言うことに憤りを感じずにはいられないのです。
もし、スポーツがわたしたちに未来への希望や生きる勇気をくれるものとして振興策を推し進めるなら、国もわたしたち国民も彼女たち彼たちの努力が実を結ぶ環境づくりと純粋な応援に徹するべきで、その見返りをアスリートたちに求めてしまえば、それでなくても「国の代表」として選ばれたことによる緊張と折り合いをつけなければならない彼女たち彼たちをより精神的に追い詰めるだけで、結果を残せるものも残せないことになるでしょう。
そんなことを思っていたら、元陸上日本代表の為末大氏が竹田恒泰氏の発言にすばやく反論し、とても心強く思いました。
為末大氏は「選手の強化費は国費から出ているものだから、当然選手は結果を出すべき」との批判に焦点をあて、日本の強化費の現状を説明しています。
今日の日本ではサポート態勢は十分ではなく、強化費も発表している国の中で最も低いと指摘しています。実際、日本の強化費の少なさは以前から注目されており、たとえば、報道されている北京五輪(08年)の年間強化費をみてみると、ドイツ274億円、米国165億円、中国120億円、英120億円などに対して、日本はわずか25億円程度だそうです。
為末氏はメダル獲得に不利な状況にいる中で「選手たちは努力していると言えるのではないか」と評価し、同時に、そうした状況下で個々にメダルという結果を求める風潮を「選手に酷な状況」と危惧する。これは「足りないリソース(資源)を気持ちで補わせる」「全体的問題を個人の努力に押し付ける」という日本的精神論に通じるものであるとも指摘しています。
記事はたちまち反響を呼び、「アスリートは不相応な荷重を感じながらプレーしていることを私たちも知っておくべきだと思う」、「よく言って下さいました。もっともっと言ってやって下さい」などと賛同の声が相次いでいる。
わたしはスポーツから社会問題まで、とても柔らかい感性で時代を読み取る為末氏を快く思ってきましたが、今回の発言はスポーツ選手だけではなく、スポーツを観るだけのわたしもとても共感できます。
一方で、そんな国や国民の期待という重圧を力にし、緊張をバネにしてこそ栄光を獲得できるという人もいて、19才の羽生選手はまさしくそのひとりだったのでしょう。
その彼でさえ、フリーでは緊張で体が動かず、思ったスケートにならなかったですし、それで有利にたったはずの世界王者、カナダのチャン選手ですら信じられないミスをしてしまい、ミスの多少でメダルの行方が決まってしまいました。

フィギアスケートやジャンプ、スピードスケートへのメダル獲得に期待が集まる中、わたしはスノーボードの平野歩夢、平岡卓選手の銀、銅メダル獲得のニュースをうれしく思いました。そして、10代の彼らがメダル獲得に喜びを爆発させる様子もあまりなく、淡々としていることにとても好感を持ち、心強く思います。
スノーボードといえば、前回のバンクーバーオリンピックにおける国母選手の服装問題が記憶をよびさまします。着こなしや謝罪会見での不用意な発言などから強いバッシングと批判報道を受けた事件でしたが、しかもこれらの一連のバッシングが彼の競技の前になされていることもふくめて、国母選手はほんとうに気の毒でした。わたしは日本のスポーツの世界のおぞましさを見せられたように思う一方、スポーツの世界にとどまらずわたしたちの社会がとても暴力的でヒステリックになっていることに背筋が震えました。
あれから4年、その流れはますますヒートアップしていることを実感する中、今でも世界の最前線で活躍する彼が、今回のソチオリンピックにおいてスノーボード競技のコーチとして、平野、平岡両選手の活躍に力を貸していたことを知りました。
とくに平野選手とは実質的な師弟関係にあり、私生活での面倒も見るなど深い信頼関係で知られているようです。
わたしは平野、平岡両選手の淡々とした表情の向こうに、国母選手の暖かいまなざしとともに彼自身の「リベンジ」を見たような気がします。

オリンピックに思う” に対して2件のコメントがあります。

  1. S.N より:

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    tunehiko様の意見に共感いたします。
    オリンピックに出場するというだけでも
    本当に素晴らしいことで大変なことだと思います。
    2020年の東京オリンピックでは、各国の選手が存分に
    実力が発揮できて、出場できてよかったと思ってもらえる
    ようなオリンピックになればいいですね。
    Sochi五輪に参加されているすべての選手達を
    心から賞賛したい気持ちです。

  2. tunehiko より:

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    S.N様
    いつもうれしいコメントありがとうございます。
    島津亜矢さんのことを書きはじめたのですが、これだけオリンピックが盛り上がっていて何も触れないのもおかしいかなと思い、この記事を書いてしまいました。
    わたしはやはりオリンピックそのものは苦手です。
    スポーツは筋書きのないドラマですからどこまでが実力でどこからが運不運かわかりません。
    成果が出た人には素直に祝福し、成果が出なかった人にはその残念を分かち合うのが、スポーツ観戦の醍醐味だと私は思うのです。

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