映画「エレニの帰郷」

映画「エレニの帰郷」を観ました。
この映画はカンヌ映画祭パルムドール受賞作の「永遠と一日」(1998)をはじめ、「旅芸人の記憶」(75)、「アレクサンダー大王」(80)、「シテール島への船出」(83)、「ユリシーズの瞳」(95)など数々の名作を残したギリシャの巨匠テオ・アンゲロプロスの遺作となった映画です。
テオ・アンゲロプロス監督の映画は映画館では「永遠と一日」と今回の「エレニの帰郷」しか見ていないのですが、ワンシーン・ワンカットの長回しや特異な映像技法による幻想的、叙情的な映像で観る者を圧倒する一方で、時と場所が一つのセリフから自在に変わり、回想と現実が入り混じる難解な映画としても知られています。
また、独裁、戦争、占領、内戦、亡命、ファシズム、コミュニズムといったギリシャとヨーロッパの歴史的な背景を知らないとわかりにくい映画とも言われています。
わたしは以前にNHKのBS放送で「エレニの旅」、「シテール島の船出」、「霧の中の風景」を観たのですが、正直に言うとたしかにわかりにくい映画でしたが、それぞれの映画のいくつかのシーンが記憶から離れず、日々の暮らしの中で不意によみがえる瞬間が今でしばしばあります。
いろいろな映画の一シーンが心に残ることはよくあることでしょうが、わたしの場合、この監督の映画を観続けてきたわけでもなくファンとはいいがたいのですが、切なく哀しく、美しい映像が心にへばりついているのでした。
それはもちろん、テオ・アンゲロプロス監督の圧倒的な映像言語によるところが大きいのですが、わたしの個人的な心情から来るものもあります。
テオ・アンゲロプロス監督を教えてくれたのは2年前に亡くなった友人、M・Kさんでした。彼女との出会いがいつだったのかはっきりとおぼえていないのですが、豊能障害者労働センター在職時から仕事の上でも私生活でもとても世話になりました。
彼女の芸術への慧眼はすばらしいものがあり、とくにわたしの苦手なクラシックへの憧憬も深く、コンサートにも誘ってくれました。芝居では唐十郎やつかこうへい、音楽では浅川マキなど、多くのひとを教えてくれましたし、また障害者運動のことや女性運動のことも彼女から数多くのことを学びました。
わたしが箕面を離れた後も時々クラシックコンサートに誘ってくれたり、また箕面での障害者問題の会で一緒に活動しましたが、わたしよりもずっと深くつきあうようになったのは私の娘夫婦でした。娘は短大卒業後、給食や調理の仕事で東京や福島にいましたが、いろいろなつらい経験をしたようでその後、介護派遣やグループホームの運営などの活動をしている箕面のNPO団体で仕事をするようになりました。娘の夫ともそこで知り合ったのですが、M・Kさんもその団体の職員で、娘夫婦は仕事の面でもプライベートな面でも尊敬していました。
そんな彼女が癌でなくなったのは一昨年の夏でした。わたしよりも10歳も若く逝ってしまった彼女のことはまだわたしの中で心の整理ができていません。身近な出来事から国や社会の在り様などの大きな問題を彼女ならどう思うだろうと、とても静かな語り口でするどく物事の本質を語ってくれた彼女の声が今でも聞こえてきます。
「エレニの帰郷」を観てまっ先に思うことは、今はもう思い出としてしか語ることができないM・Kさんとの友情で、それはわたし自身の固有の喪失感ではあるのですが、まさしくテオ・アンゲロプロス監督が描いてきた時代の喪失感ともつながり、なんとも言えない感情が背中を走るのを止められませんでした。

20世紀末、映画監督のAは母親エレニと恋人スピロス、そしてエレニを愛し、彼女を支え続けたヤコブの3人の愛を描く映画を製作していました。
1953年4月27日、ギリシャ難民の町テミルタウ。エレニは大学生の時に秘密警察に逮捕され、恋人スピロスと離ればなれになり収監所に送られるのですが脱走し、イスラエル難民のヤコブと共にこの地に身をひそめています。
スピロスはようやくこの町にたどり着き、二人は再会するのですが、スターリン死去の混乱の中で逮捕され、エレニはシベリアに送られます。この時、エレニのお腹にはスピロスの息子Aが宿っていました。ヤコブもまたエレニをかくまっていた罪でシベリアに送られ、彼は長い年月エレニを支える存在となります。
ギリシャ内戦からスターリンの死、ベトナム戦争、ウォーターゲート事件にベルリンの壁崩壊。激動の20世紀、ギリシャの外で生きざるを得なかった人たちの、時代も場所も超えた再開と別れの物語がAの映画製作と並行して描かれていきます。
1953年から1999年までの半世紀のギリシャとヨーロッパの歴史を背景に次々と回想される再会と別離の物語は、やはりギリシャの歴史を知らないとよく理解できないのですが、近代以後のギリシャがいつもイギリス、フランス、ドイツ、ソ連などのヨーロッパ諸国の支配下に置かれ、蹂躙されてきたことなどをまったく知らなかったわたしはこの監督の映画を観ることで、日本のように海を挟んだ国境ではなくヨーロッパの国境が大国の力関係で引き直され、いつも地続きであることを体感できました。それは教科書では決して学べないもので、「エレニの帰郷」の3人の愛の物語は国境に引き裂かれながら、国境を越えることでつながっていくのでした。
同じ方向に歩いていく群集、いくつもの雪の降る景色、長くジグザグに昇る階段、電車内での逢引、いくつものスターリンの彫像、パイプオルガン、壊れたテレビ…。それらの映像はギリシャとヨーロッパの悲劇の歴史を物語っているようです。
1999年12月31日、ベルリンで映画をつくるAのもとでエレニとスピロス、そしてヤコブが最後の再会を果たします。そして、ヤコブはエレニへの愛を貫いたまま、川に身を投げます。エレニもまたギリシャにもどれないまま死んでいきます。
2人の死はヨーロッパを戦争と暴力が吹きすさび、いく億の血が流され続けた20世紀を必死に生きのびたひとびとの「来る世紀」への切ない希望といとおしい祈りだったのかも知れません。
映画はしかしながら、21世紀を生き抜かなければならない残された人々に、決して明るい未来が用意されていないことを予言しているようです。
ラストシーン、躁うつ病になやまされながらも祖母から生きる力を得たAの娘(彼女の名前もエレニ)が祖父のスピロスと手をつなぎ、雪の中、ブランデンブルク門の前をスクリーンという国境を越えて観客の方へと向かってくる時、21世紀の愛の物語はわたしたちに託されたのだと思いました。
それはちょうど、映画の冒頭でスピロスと再会し、過酷な状況にあっても希望にあふれた祖母エレニが雪の中をこちらに向かって来るシーンと重なっていました。
それ以後のエレニの悲惨な運命を知っているわたしたちは、少女エレニの21世紀の物語を読むのが怖くなってしまうのです。
前作「エレニの旅」からはじまった「20世紀3部作」の第2作目だった「エレニの帰郷」のラストシーンは、完結編となる第3作「もう一つの海」に引き継がれるはずでした。しかしながらその映画の撮影中、不慮の事故によってテオ・アンゲロプロス監督は亡くなってしまいました。残されたチームで完成させる意志もあるようですが、どちらにしても21世紀の愛の物語のゆくえはわたしたち自身が語るしかないのです。

何も終わっていない。終わるものはない。帰るのだ…。物語はいつしか過去に埋もれ、時の埃にまみれて見えなくなるが、それでもいつか不意に、夢のように戻ってくる。終わるものはない。(「時の埃」は映画の英語原題)

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