映画「ストロベリーショートケイクス」と壁掛けカレンダーの役割

わたしは豊能障害者労働センターと関連団体在職時にまたがった20年ほど、カレンダーの企画販売にかかわっていました。
当初はただただ障害者スタッフをふくむ全員の給料と年末一時金をつくり出すためのお願いをするだけでしたが、企画を続ける間に、一年間カレンダーを壁にかけてくださるひとびとがどんな思いでカレンダーを見つめ、一年の間の大きな出来事や小さな出来事のさ中にもカレンダーの次のページにどんな夢を重ねてくださっているのだろうかと、想いを馳せるようになりました。
また一方で世界のいたるところで悲鳴を上げている子どもたちが、ささやかでもいい、安心して暮らせる平和な日々が送れるために、北大阪の片隅で生きる非力で貧乏なわたしたちに何ができるのだろうと思ってきました。
そして今、世界の子供たちの悲鳴は、豊かで平和に暮らしているはずのわたしたちの社会の子どもたちの悲鳴でもあると強く感じます。誰も傷つかず、誰も傷つけず、このかけがえのない地球でいきるすべてのひとがその日の糧を分け合い、明日への希望をたがやすために平和を願うことは夢物語でも理想でもなく、さまざまなひとびとが助け合って生きるための厳しい勇気をともなうことを、カレンダーにたずさわった20年が教えてくれました。そのあいだに書いてきたカレンダーへの想いを再録記事とさせていただきました。

2016.11.04の記事
棺おけをベッドにした風変わりな部屋。マウンテンバイクと大きな水槽。薄暗い部屋に影絵のように忍び込む柔らかい光。デリヘルの仕事用の靴と、好きな男に会いに行くためのズック。そしてトランクに無造作に放り込まれた札束。
デリバリーヘルス店「ヘブンスゲート」のNO.1デリヘル嬢・秋代は、その仕事とは裏腹に、専門学校の同級生・菊池に一途な片思いを募らせている。
かけられたカレンダーは月の満ち引きのデザインで、そこに一日だけ「きくち」と書き込まれている。
「スペシャルな人のスペシャルになりたい」と恋の訪れを願う里子。好きな男に告白もせず、「ともだち」でいることをかたくなに守りながら、デリヘルの仕事をしている秋代。自分らしく生きようと必死になるために過食と嘔吐をくりかえす塔子。やりがいのある仕事もなく、自分の居場所を男に求める結婚願望の強いちひろ。
魚喃キリコのコミックス原作、矢崎仁司監督の映画「ストロベリーショートケイクス」は、少し極端ではありますが、きっと女性ならだれでも共感できる4人の女性の日常を切り取っていきます。イチゴケーキのようには甘くはない現実をうけとめ、淡々と生きる彼女たちの日常は痛々しいがとてもいとおしく、思わず抱きしめたくなるのです。
そして幸せを求める彼女たちの日常がそのままわたしたちの日常に紛れ込み、切ないイチゴケーキとなって残る、そんな映画でした。
この映画を観ていて、わたしの目に焼きついたのが秋代の部屋のカレンダーでした。一途に思いつづける「きくち」に電話をかけ、田舎の実家からトマトを送ってきたからあげるといって約束し、近所のスーパーでトマトを買います。
仕事のときとはうって変わり、洗いざらしのTシャツとジーンズ。化粧もせず、黒ぶちのめがねをかけて坂道を自転車で走る後姿は、純愛に心焦がす彼女の本当の姿なのです。
「きくち」には彼女がいて、決して報われないことを知っているからこそ「友だち」を装い、居酒屋でわざと乱暴な言葉づかいで飲んでいる後姿もまた、肩のふるえが伝わってきます。
こんないとおしくせつない彼女の恋の記念日が、カレンダーの一ヶ月分に一回あるかないかの「きくち」というメモに記されています。それ以外のメモはいっさい書かれていないのでした。持ち歩く手帳や携帯電話のカレンダーにはない、壁掛けカレンダーの切実な役割がそこにはあります。

わたしはといえば高校を卒業して友だちとアパートに住みはじめ、それから何度となく引っ越しをしました。
一人暮らしをしたり、友だち何人かと暮らしたりしてきましたが、不思議にその頃はカレンダーにかかわる思い出はありません。定職にもつかず、ビルの清掃などで貯めたお金で1年間は昼と夜が逆転する生活をしていました。そんな暮らしにカレンダーなど必要なかったのでした。
この映画に登場するひとたちと同じように、無垢ともいえる青い時を通りすぎた後、自分の暮らしやこれからのこと、かなわなかった恋、ふるいにかけられて残った友だち、心のひだにしみこんだ後悔…、そんな切ない日々を通り過ぎた部屋には、いつのまにかカレンダーが掛かっていました。
世界の現実に目を向ければ、悲しい記念日に埋めつくされ、カレンダーのどの1日からも悲鳴が聞こえてきます。1995年1月17日や2001年9月11日、たくさんの世界の悲しい記念日は特別であるはずのひとりひとりの死をかくしたまま、何千、何万、何百万と死者の数を数え、おびただしい血で書き込まれた記念日を積み重ねてきたのでした。
その血塗られた瓦礫となった壁にもまた、カレンダーは掛かっていたことでしょう。この世界の誰彼にとって特別に悲しい記念日が1年365日では足るはずもない現実もまた、たしかにあります。
けれどもその一方で、この世界に生きる70億の人々の、だれかの誕生日でない日などないのではないでしょうか。さよならを数えるカレンダーもあれば、いのちと出会いと愛を数えるカレンダーもまた、たしかにあります。わたしだけの大切な記念日があるように、わたしの知らない、世界でたったひとりの誰かの特別な記念日もまた、カレンダーにはかくれているのだと思います。
そんなことを思うと、わたしたちと松井しのぶさんと多くの関係者がつくりあげたカレンダー「やさしいちきゅうものがたり」が、どんなひとのどんな部屋に掛けられ、どんな日々をみつめることになるのか、期待と不安とせつなさでいっぱいになります。
そして、いろいろなひとがちがった思いでちがった日に書き込みを入れてくれることを願います。このカレンダーが2万人の方々に届いたならば、1年365日のうちの1日だけでもいいから2万の特別な記念日になることを願ってやみません。
そして…その1日がもし悲しい記念日になったとしても、このカレンダーがその日をやさしく抱きしめてくれることを願っています。

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