「僕らの音楽」と口ぱく問題

フジテレビの音楽番組「僕らの音楽」と「堂本兄弟」が9月末で放送打ち切りとなりました。 わたしはかなり以前よりこれらの番組をよく観ていましたが、どちらの番組も昨年に「口パク禁止」を打ち出した菊池プロデューサーが担当していた番組でした。 フジテレビは今年大幅な人事があったそうで、菊池プロデューサーも7月で異動になっていました。菊池プロデューサーは「MUSIC FAIR」のプロデュースも担当していて、昨年までのFNS歌謡祭のチーフプロデューサーでもありました。古くは「夜のヒットスタジオ」のアシスタントデイレクターに始まり、フジテレビの音楽番組を数多く手掛けてきた名プロデューサーでした。後輩に道をゆずるなどさまざまな事情があるとは思いますが、やはり何といっても昨年の春に打ち出した「口パク禁止令」が大手芸能プロとレコード会社の反発を強め、フジテレビはこれを鎮火するためにプロデューサーを辞めさせ、番組までも打ち切りにして事なきをえようと言うことのようです。見方を変えれば、それほどまでに芸能事務所の力が大きいということでしょう。 そもそもの発端である「口パク」は、現在のJポップとアイドルをかかえる芸能事務所主導の音楽シーンが、そんなにクリエイティブとも思えないダンスやファッションと「イケメン」の男子と「かわいい」女子によるビジュアルなパフォーマンスを中心にプロデュースされていて、本来の「音楽」がとても軽く扱われている結果なのでしょう。 CDでは音楽的な技術によってある程度のレベルを保つように、またライブでも派手なパフォーマンスとともに事務所の意向に沿った音響技術を駆使して「口パク」もふくめてレベルを上げるように、テレビ放送でも「口パク」をふくめて音楽事務所が要求するままに音楽のレベルを粉飾するなら、それは音楽における「ファシズム」以外のなにものでもありません。 そこまでしてアイドルとしての少年少女が商品化され、使い捨てられていく現実を「芸能界」の必要悪とするには、高度経済成長時代ならまだしも若い人たちの未来がどんどん狭まり、やり直しが難しくなっている今、あまりにもむごいと言わざるをえません。彼女たち彼たちの可能性を信じ、励まし、ゆっくりと時間をかけて育てていくことが、「おとなたち」の役割ではないのでしょうか。 世の中があるひとつの方向に束ねられていき、それに異議申し立てをする個人の力が極度に弱められる危機の中、実は政治や社会問題とは無縁に見えるJポップとアイドルの音楽シーンではすでに大手芸能事務所による一極支配が早くから先行されていたことを、「口パク禁止」問題は教えてくれました。 最近はBS放送の五木ひろしの番組など、演歌のジャンルでも多少の音楽的冒険を試みられるものの、ほとんどの演歌の番組が既成の枠組みと序列によって構成され、これでは量的にも質的にもJポップと太刀打ちできるはずがないと思っていましたが、Jポップの方もおよそ音楽的な冒険とは無縁の、「性の商品化」といっても過言ではない10代の少年少女の刹那的な夢を膨張させ、使い捨てるだけの末期的な資本主義市場と化してしまっている現実をとても悲しく思います。 もちろん、大衆芸能はいつもそれを望むひとびとによってささえられてきたのですから、ひとびとの欲望を先取りし、競争相手との過酷なたたかいの中から数多くのアイドルやシンガーを発掘し、育て、商品として売り出す音楽産業が大きな役割を果たしていることは事実です。それに従事するひとびとの労働が、アントニオ・ネグリの言う非物質的な労働(知的・情動的、サービスなど)そのものである音楽産業が多くの雇用を生み出すだけでなく、時代の風を読み時代の風をつくろうとしていることは間違いないのでしょう。 そして、日々進化する科学技術はこれまでありえなかったことが実現してしまい、3Dプリンターのようにデザインからその物の本質的な構造もふくめてアプローチし、再現してしまうところまで来てしまいました。かつて偽物をつくるために名人がアナログでつくりだした肉体と勘による奇跡的な作業は過去のものとなっただけでなく、本物そのものが人の手や肉体や勘を必要としなくなり、そこからつくりだされる「本物」はすでに類型化された偽物といってもいいのかもしれません。 すでに「福祉」や「健康」も市場化され、「婚活」や「合コン」、「恋愛」や「出会い」などもサービス化され、わたしたち生身の肉体や心までもがアナログではなくデジタル化されていく資本主義の末期である今、その先頭を走る音楽などの情動産業が「口パク」などを問題にすることを前近代的と切り捨ててしまうのもあたりまえのことなのでしょう。

 しかしながら一方で、わたしはかつての寺山修司の名言「人間は進化しない、環境が進化するだけ」という言葉を思い出しています。いくら科学技術が進化し、人間の肉体や体を分析し類型化しても、わたしたちは生まれた時からずっと一回限りの人生を生きるこの肉体と心からは自由にはなれないのではないでしょうか。偶然に出会い偶然に恋におちるのも嫉妬したり失恋するのも、いくら類型化が試みられてもわたしひとりの固有の体験なのですから。 歌はおよそ地球に人間が誕生した時からそばにあり、最初は動物の鳴き声や川や海の音や風の音の真似から始まり、やがて言葉を乗せてひとからひとへと伝えるためのメディアへと発展してきたのでしょう。そしてまた歌は真実や事実などほんとうにあったことを伝える叙事詩と、だれかを想い続ける恋や夢や希望を語る抒情詩が重なりあいながら、およそこの地球に生まれ去っていった何十億何百億のたましいにささえられ、またその愛おしいたましいたちの足跡をわたしたちに伝えてくれているのだとも思います。 満天の星屑・スターダストから降りそそぐ音楽のスコールと、空高くどこまでも昇っていく無数の歌のかけらが出会い、そこからまた新しい歌がうまれる…、歌う人も聴く人もそれぞれの「肉体の牢獄」から解き放たれ、心と心が解け合い、共振する、そんな瞬間に立会えた時、音楽の神様の最高の贈り物を分かちあえるのではないでしょうか。 そして、そんな「至上の愛」(ジョン・コルトレーン)に身も心も包まれた時、わたしたちは「肉声」の復権を求めざるをえません。どんなに科学技術が進化し、わたしたちの体も心も解体されていったとしても、「肉声」こそはわたしたちに残された最後の存在証明だと思います。

およそ「口ぱく」とは縁がない、生歌でしか聴けない島津亜矢の熱唱です。以前に書きましたが、わたしは「僕らの音楽」に島津亜矢が出演することを願っていました。わたしは菊池プロデューサーのことも「口ぱく」問題も知らない頃からこの番組のコンセプトが気に入っていて、この番組なら島津亜矢が出場する意味があると思っていたからです。今回はオリジナルでなく、すべてカバーになってしまいましたが、わたしの大好きな歌を3つ紹介します。

島津亜矢「熱き心に」惜しくも亡くなった大滝詠一の傑作で、このひとは小林旭の大ファンだったそうです。小林旭の役者としての特有の個性が生きるドラマチックなこの歌を、島津亜矢はもう少しナチュラルで、それでいて叙事詩的な物語性を持って歌っていて、とてもなじんでいると思います。島津亜矢「山河」 この歌については何度も書いてきたような気がしますが、日本が世界に誇れる名曲で、島津亜矢のワールドワイドな歌唱力と歌の解釈はすばらしいと思います。

島津亜矢「命かれても」森進一はけっこう演歌ファンの一部にも嫌われる個性を持っていますが、わたしはまさにその点で、つまり演歌歌手でありながら演歌歌手ととらえにくい歌の世界を持っていて、その点が島津亜矢も似ていると思っています。とくに「命かれても」は、わたしの若い時の愛唱歌で、自他ともに許す「暗い」青春時代のただ中で、この歌や三上寛の「夢は夜ひらく」にずいぶん慰められました。島津亜矢はこの歌に限らず、森進一のカバー曲を歌うと、彼女自身の歌の底にある悲しい女の叫びが聞こえてくるようで、とても好きです。

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