巨大なからくり箱を用意してくれたひと 唐十郎さんを偲ぶ

唐版「風の又三郎」

学校では教えてくれなかった国家と歴史に抗うささやかな希望を唐十郎さんから学びました。

 唐十郎さんが亡くなりました。わたしの人生の道しるべだった同時代の旗手がまたひとり、去って行きました。

 母親が朝早くから夜遅くまで大衆食堂を営み、母と兄とわたしの3人が身を寄り添い、その日その日を食べていくのがやっとだった子ども時代、わたしと兄の成長だけをよりどころに必死に働いていた母親の切ない心に想いが届かず、わたしは「ここより他の場所」を求めて街を出ていくことばかりを考えていました。
 その頃、息をひそめるわたしの心を照らしてくれたのが寺山修司でした。高度経済成長を背景に若者の青春を無条件に後押しする「家出のすすめ」を読みながら、わたしもまたいつか「暗く寂しい家」を出ようと思っていたのでした。
 高校卒業を機に友人3人と大阪市岸里に住み始めたわたしは半年で建築事務所をやめ、ビルの清掃で生活しながら都会の文化にうずもれていきました。1960年代後半は政治の時代でもありましたが、ジャズやロック、R&Bと若者が吸い寄せられる様々なサブカルチュアやライブスポットが生まれ、田舎者のわたしもその荒々しい渦の中に飛び込みました。
 わたしが唐十郎を知ったのは、おそらく「美術手帳」か「現代詩手帳」で状況劇場の記事を見たからだと思います。それから後、大島渚の「新宿泥棒日記」の劇中劇で見た「由比正雪」が衝撃的でした。

唐版「風の又三郎」、ここからわたしの人生がはじまりました。

 そして1974年、状況劇場が大阪の天王寺野外音楽堂で「唐版 風の又三郎」を上演し、わたしははじめて紅テントの中に入ったのでした。麿赤児や四谷シモンはすでに退団し、李礼仙、大久保鷹、不破万作とともに、根津甚八と小林薫が人気を集めていました。当時の天王寺公園はまさに大阪を象徴するような猥雑さに満ち溢れていました。とくに野外音楽堂の付近はうっそうとしていました。その天王寺野外音楽堂も今はなく、それからずっと後に天王寺公園から猥雑でわくわくしたすべてが排除されてしまいました。
 当時は特に根津甚八ファンの若い女性が殺到していて、テントの横壁の近くで前かがみにならなければならない立ち見の状態でした。根津甚八がテントのうしろから花道に登場すると「甚八さん!」と黄色い声がキャーキャー飛び交い、その熱気にあおられ、現実からあっという間に異世界に連れ去られたのでした。
 その時以来、後に状況劇場が解散し唐組が旗揚げしてからずいぶん時が経ちましたが、毎年やってくる唐組の芝居をほとんど観てきました。紅テントの中にいると、わたしの心と体からもうひとりの自分が現れ、芝居の中に溶け込んでいくような不思議な感覚になりました。そうなってしまうとたとえ筋書きも芝居の背景も知らなくても、すでに観客ではなくなってしまったわたしは、不条理でも不可解でも理不尽でも、うろうろぼろぼろしながらも暗闇のかなたへとつき進むしかなくなるのでした。
 そして、大団円を迎えると密室空間がぽっかりと開かれ、登場人物が現実の街の夜へと消えていこうとする時、わたしはテント小屋の中にもう一人の自分を置き忘れたまま、現実の街へと帰って行きました。そして、ひるがえる紅テントが去った後の物語の「その後」は巷の夜に放り出されたわたしの心のひだにべっとりとへばりついたままで、その物語の中で違う人生を生きるもう一人の自分と再会するために、わたしはまた次の年に紅テントの中へと迷い込むのでした。

悪意に満ちた世界の現実に立ち向かう少年少女の純愛をかくまう異空のシェルター、赤テント。

 実を言うと、毎年新作を掲げてやってくる芝居はあまりよくわからないまま終わってしまいます。あまり深く考えなくても楽しめたらいいやと思いつつ、一方で深い洞察と広い見聞に裏付けられていることが多く、むかしは後で脚本を読んでみて、「ああ、こういうことだったのか」と納得することもあって、なかなか悩ましい一夜となるのです。
 けれども、わたしの勝手な見方かもしれませんが、唐十郎の芝居の中に入るとそこはかつていとおしい者たちがひしめきあい、たたかい、心を通わせていた街、いまはもう消えてしまったけれども、ぬりかえてもぬりかえても浮かび上がってくる記憶の壁、そしてその世界から今ある世界へとつながる地下水道、現実の世界のいたるところに唐十郎が用意する街へとつながる穴がぽっかりあいていて、いつでもその暗闇にはまりこんでしまう危険な空間が赤テントに仕込まれているのを感じていました。
 いくつもの物語が錯綜しては引きはがされ、またひとつにつながっていく縦横無尽の展開と饒舌を越えた早口セリフの挑発的な熱量と圧倒的な難解さに取り残されるばかりでしたが、唐組は風のごとくその痕跡を消しながら街のいたるところに赤テントという異空のシェルターをつくってきたのだと思います。目の前で繰り広げられる物語の展開の裏側に日本の近・現代史の暗闇が広がり、芝居の中で語られる事件や戦争や災禍がその暗闇の歴史のるつぼで再構成され、テント小屋の密室空間にせり上がってくるのでした。
 ひるがえるマントにロマンティズムを忍ばせて唐十郎がのぞかせてくれるものは、新聞の三面記事に仕組まれた悪意に満ちた世界に抗う少年少女の純愛で、その純愛は国家もわたしたちも忘れてしまいたい日本の歴史の暗闇に見捨てられた理不尽な出来事をよみがえらせるのです。
 途方もない虚構から反歴史と呼べるもうひとつの歴史を呼び覚ますために…。
 実際、わたしは唐十郎の芝居で、学校の教科書では学べなかった歴史を学びました。
 芝居の最後、閉ざされたテントの空間が解き放たれ舞台後方の背景が破れると、夜の風が観客をつつみ、サーチライトで照らされた果ての風景は、とてもドラマチックで胸が切なくなります。遠く彼方のその風景は、かつてあった風景、あったかもしれない風景がこれからあるかもしれない風景、あるべき風景へととけていき、わたしにかすかな希望の光をとどけてくれるのでした。芝居の後、「また会いましょう」と唐十郎の衰えを知らない美しい声が、いまも心に響いています。

「また会いましょう」と唐十郎の美しい声。闇の向こうの光へと一歩踏み出す勇気。

 唐十郎が転倒で舞台に上がれなくなった時から、唐組はそれまでの唐十郎の芝居を再演してきました。あえて新作を掲げず、演出の久保井研は唐十郎との共同演出で、時には状況劇場時代の作品にまで手を広げてでも実直に唐十郎の芝居にこだわりつづけてきました。それは国内外を問わず唐十郎の演劇世界が指し示す世界のありようが、よくも悪くも今の時代につづき、今の時代からつづくぺんぺん草の荒野と化す現実世界を先取りしているからだと思うのです。言葉を変えれば、1989年の旗揚げ以来の長い年月のそれぞれの時代背景を借景にした唐十郎の膨大な劇空間を終わらせる、世界の希望が生まれてこなかった悲しい現実があります。
 悪意に満ち満ちている世界の現実を小さな三面記事から引き延ばし、唐組の役者たちの肉体を突き抜け、赤テントの柔らかい皮膚を破り、夜の巷の雑踏の真っただ中に解き放つ…。その時、わたしたちもまた悪意に満ち満ちている現実に抗い、主人公の少年少女の無垢のたましいとともに闇の向こうの光へと一歩踏み出す勇気を持とうと思うのです。
 奇しくも寺山修司と同じ5月4日に亡くなった唐十郎さんに、哀悼の意をささげます。

*この記事は過去の複数の記事を再構成し、加筆修正しました。