奪い合うより助け合い、疑うよりは信じあえる社会

共謀罪法案(「共謀罪」の成立要件を改めたテロ等準備罪を創設する改正組織犯罪処罰法)が6月15日早朝成立し、7月中に施行されることになりました。
これからの日本社会の行方を大きく決めてしまう重要な法案を、国会の最大の役目である徹底議論をさけ、目前の政局とスキャンダル封じのために数の論理で押し切ってしまった政府・与党の暴挙は、それを許してしまったわたしたち国民すべての過ちとして、次の時代を担う子供たちの未来に取り返しのつかない傷跡を残してしまいました。
政府は「共謀罪」の創設が2000年11月に国連総会で採択された「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」に批准するための措置であり、また東京オリンピック・パラリンピックを前にしてテロや犯罪防止に必要としています。
しかしながら、条約の批准に「共謀罪」が必ずしも必要でないことが明らかになりましたし、また共謀罪の法を持つイギリスやフランスで多発するテロを防げなかったことをみても、この法律でテロが防げると本当に政府と与党が信じているとは思えません。
「共謀罪」とか、「組織的犯罪集団」と聞けば、ほとんどのひとがその対象に自分がなることはなく、反対に政府が説明しているように「わたしたち一般市民をテロや犯罪から守ってくれるありがたい法律だと思われるかも知れません。
しかしながら、わたしたちの身の周りで起きる理不尽なことは、なにも暴力団やテロ集団だけが起こすとは限りません。むしろ原発事故で今もまだ避難生活を続けるひとびとへの偏見や差別、米軍基地や自衛隊の基地を配備し沖縄を「国を守る」ための前線基地にしてしまう国家、森友学園や加計学園問題の数々の疑惑に応えることも明らかにすることもせず、真実を伝えようとするひとびとを愚弄し人格攻撃をする政府…、
昔流行った鶴田浩二の歌ではありませんが「何から何まで真っ暗闇だ」と叫びたくなる理不尽な出来事が日常茶飯事となってしまっている現実があります。
もちろん、すべてのひとが平和で豊かで幸せに暮らせる社会を実現するには遠い道のりを必要とするのかも知れません。しかしながら、わたしたちそれぞれが抱える問題は個別であるとともに、形はちがえども他のひとびとが抱える問題と重なっていることもまた、わたしたちは知っています。人類史上最大の死者と最悪の被害を出した第二次世界大戦の教訓から、日本社会も国際社会も暴力ではなく話し合い、奪い合うよりも助け合いによって平和で豊かな社会をつくりだす努力を積み重ねてきたことも真実ではないでしょうか。
その道は時には行く手をはばむ霧に覆われ、寸断されることもたびたびありましたが、それでも一筋の光を求めて這い上がり、手をつなぎながら生きる大切さをわたしたちは学びました。
戦時中の治安維持法のもとで隣同士や家族まで「信じること」より「疑うこと」を押し付けられ、国が認める人間にならなければならなかった先人たちの切ないメッセージこそが、曲がりなりにも戦後の民主主義を支えてきたのだとわたしは思います。

ミシェル・フーコーは、「監獄の誕生~監視と処罰~」の中で、近代に入ると罪人の身体への直接的な体罰から、「罪人を隔離し、教育しなおす」という監獄のシステムが誕生したと書いています。そして、監視と矯正、調教というシステムは近代教育に適用され、犯罪を犯さず、社会に有用な人間に調教することを学校教育に求めるようになりました。
フーコーはまた「狂気の歴史」で、社会に適応しないひとびとをかつてのように「阿呆船」に乗せて追放するのではなく、社会の周辺に精神病院をつくり、病者だけでなく政治犯や社会に適応できないひとびとを監視、調教するようになったと書いています。
最近、朝日新聞でも取り上げられましたが、フーコーは近代の管理システムの起源をパノプティコンに見い出しました。
パノプティコンとは、イギリスの思想家ジェレミー・ベンサムが理想として設計した円形の刑務所施設で、フーコーはその仕組みを次のように説明しています。
この刑務所の構造は中央に監視塔を設け,その周囲に円状の収容施設を配置します。囚人は他の囚人とたちきられ、常に監視者に姿をさらしているのですが、自分の方から監視する人間を確認できないようにされています。
そこには監視する者を必要とせず、「いつも監視されている」と囚人が思うことで服従する究極の監視体制が実現できるのです。
共謀法や通信傍受法、特定秘密保護法など、国を守るためとか、犯罪から一般市民を守るという名目で国家が個人を疑い監視する社会では、国家が監視することよりも、わたしたち国民自身が「助け合う」ことよりも「うたがう」ことによって分断され、疑心暗鬼の不安と恐怖にさいなまれる、社会全体のパノプティコン化と言えるでしょう。
ほんとうに恐ろしいのは国家の暴力ではなく、その暴力のもとで身をかがめ、わたしたち自身が監視しあい、自分らしく生きることに絶望してしまい、いつのまにか「国家に守られるべき善良な国民」の側にしがみつくことにあくせくするようになることだと思います。
ここまで突き進んだこの政権がやり残したことは、憲法を変えることだけでしょう。読者のいない小説、観客のいない一人芝居、相手のいないボクシング…、最後は強行採決で決めてしまえる圧倒的な力を持ってしまった孤独な政権は、助けてくれる友も相談できる友もないまま、1億2674万人の「自分らしく生きることを放棄した」わたしたちをどんな暗闇へと案内してくれるのでしょうか。
政権末期に特有の数々のスキャンダルによって政権交代がなされてきた自浄作用が利かなくなってしまった今、国民の声が断末魔となり、かき消されてしまう前に立ち止まり、国家もわたしたちも殺戮と弾圧を繰り返してきた世界の歴史から学ばなければならないと思うのです。

「どんなに自由をうばわれても人間には最後にひとつだけ自由がのこる。それは自由になろうとする自由です。」(竹中労)

天童よしみ「風が吹く」(作詞・竹中労)

中島みゆき「異国」(カバー)

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