1995年1月17日のこと

伝えてください
あの日のことを
語ってください
【ゆめ風基金】応援歌「伝えてください」
作詞:永 六輔+谷川俊太郎 作曲:小室等

1995年1月17日朝、ゆれなんてものじゃない、「ガツン」というショックで眼を覚ましました。仰向けに寝ている僕の上で天井が弧を描くようにぐるぐるとはげしくゆれだしました。ふとんの足元にテレビが転げ落ちました。午前5時46分、真冬の朝はまだ真っ暗でした。
しばらくたって、電話が鳴りました。妻が電話に出ました。「あんた、Nさんからやで」。
わたしはその当時、大阪府箕面市に住んでいて、豊能障害者労働センターのスタッフでした。豊能障害者労働センターの事務所はその一年少し前に建てたばかりのプレハブで、わたしの家の近くにありました。当時、設立時からの障害者スタッフ・Kさんが、豊能障害者労働センターの事務所の和室で仮住まいをしていました。
教師のNさんはその時の介護者として事務所に泊っていました。事務所の台所の食器棚が倒れ、食器がかなり割れてしまったこと。その後始末はしたが、もう学校に行かなければならない。代わりに事務所に来てほしい。おちついた口調でNさんはそう言って電話を切りました。
事務所の大きな引き戸をガラっと開けると、目の前にKさんがいて、「ワオッ」と変な叫び声をあげました。その当時、仕事が始まっても自分の部屋から出ず、最初にきた男のスタッフに「たたきおこされる」毎日でしたが、さすがにこの日は怖かったのだと思います。
それはわたしも同じで、それでなくてもつぎつぎとゆれが続き、プレハブづくりの事務所の窓がひっきりなしにガタガタビビビーンと鳴るので、わたしとKさんはそのたびに「ワオッ」と悲鳴を上げては抱き合いました。
そんなことをくりかえしているうちに少しずつ余震もおさまり、わたしたちはようやくおちつきをとりもどしました。
8時半になっていたでしょうか、お腹も減ってきたのでマクドナルドに行こうと、おそるおそる外に出ました。いまから思えばおかしいのですが、地震の被害がどの程度なのかもマクドナルドがやっているのかも考えませんでした。
事務所のすぐ近くの家のブロック塀が横倒しになっていました。その家のおばあさんがわたしたちを見て、「だいじょうぶ?」と声をかけてくれました。その1週間後に亡くなった彼女のその一言がいまもずっと忘れられません。彼女の死は地震と無関係とされたかもしれませんが、決してそうではないとわたしは思っています。あの地震による死者は発表されているよりははるかに多いのだと思います。
一部に建物の崩壊があったものの、隣町の豊中や池田ほどの被害はなかった箕面の街でしたが、それでもマクドナルドまでの途中、塀や樹木がたおれ、物が道路に散乱し、いたるところでガラスが割れていました。
こんな非日常の朝にわたしとKさんは不思議なことに営業していたマクドナルドで、めったに食べないハンバーガーを食べました。
店内のテレビは信じられない崩壊の風景を映していました。そしてそのテレビの外側の瓦礫の下では、6400を越える無念の死のカウントがはじまっていましたのでした。
マクドナルドを出て事務所に戻ると、みんなが少しずつ集まってきました。みんな青ざめた顔をしていました。仕事がはじまる時間になってもみんな放心状態でした。まだ何の情報も入らない被災地の障害者を思うと胸が痛くなり、日常活動なんかできるはずがありません。
事務所の周りの路地といっていい道路は車で一杯になっていました。電話ボックスには長蛇の列ができていました。被災地のまわりの街の風景は、おそらくどこも同じでした。家族は、親戚は、友人は、恋人は…、安否を知りたくて日本中、いや世界の果てからも無数の心が被災地へと急いでいました。
すでに多くのひとたちがリュックを背負い、被災地へと歩きはじめていました。わたしたちのうちの何人かは今すぐにでも救援活動に行かなければとあせっていました。
しかしながら、わたしたちが箕面を離れることができないのも現実でした。特別な朝だからこそ豊能障害者労働センターという、箕面での障害者市民運動を休むわけにはいかなかったのでした。
「救援バザーをしよう」と、誰かが言い出しました。「春のバザーの売上はすべて被災障害者の救援金にしよう。それならこの場所から離れないで救援活動に参加できる。」
やがて被災地に立ち上がった被災地障害者センターから障害者の安否確認、活動拠点の被害情報を満載したFAXが毎日届くようになりました。
それに応えるように「障害者救援本部」が結成され、わたしたちもその活動に参加することになり、救援物資のターミナルを引き受けることになりました。
豊能障害者労働センター機関紙「積木」紙上でも被災地の読者の方々へのお見舞いと、救援物資と救援金のお願いをしました。3月に救援バザーをすることも伝えました。
それから毎朝、プレハブの事務所は全国から届けられる救援物資とバザー用品で一杯になりました。全国の障害者運動団体からは救援本部のよびかけに応えて救援物資が届けられ、「積木」の読者からはバザー用品をいただきました。
公的な機関の場合は送料がいりませんでしたが、自主的な救援活動の場合は送料がかかりました。それでもひとりの人がダンボール箱3つも4つも送ってくださり、その中には救援金とともに心のこもった手紙が添えられていました。
中でもおどろいたのは、被災地の方々から多くのバザー用品が送られてきたことでした。差出住所が避難所だったこともありました。
「地震以後、朝のあいさつは『あんた生きとったか?』です。手をにぎりあって、無事を喜んでいます。あの朝、使わんものが棚からいっぱい落ちてきました。もういのちだけでけっこうや。ここではバザーもまだでけへんやろから、そちらで金に換えてここの障害者のために使うてな。わたしらがこんなに困ってるんやから、障害者はもっと大変やと思う。」
みんなで読み、泣きました。毎朝こんな言葉をいっぱいもらって勇気をもらい、救援物資を被災地の障害者に届ける一方で、バザー用品の仕分けをつづけました。
いつのまにかわたしたちの回りには100人のボランティアの方々が来てくださっていました。バザー用品の置き場所は箕面市が事務所の裏にあった古いプレハブを提供してくれました。
わたしたちの救援活動は、一方的に誰かを助けるということではありませんでした。かろうじて被害をまぬがれたわたしたちの方こそ終わらない余震におびえ、「次はわたしたちかも知れない」という恐怖におちいっていました。
死のふちをくぐりぬけてきた被災地の障害者は明確でした。一瞬のうちに無数の命がうばわれ、無数の家と生活がこわれてしまった。だからこそ被災地の復興は、共に生きる社会への再生でなければならないのだ。瓦礫の中で自分自身が困難な状態にありながら、障害者のみならず、愛する街の人々への救援活動をはじめようとする被災地の障害者のメッセージは、わたしたちだけでなく多くの人々の心に届いたのでした。
1995年3月18日の救援バザーには約7000人の方々が参加してくださいました。400万円の売り上げとなり、よびかけた救援金と合わせて1000万円を救援本部を通して被災地の障害者に届けることができました。
6月には「被災障害者支援ゆめ風基金」が立ち上がり、わたしたちは7月にゆめ風基金呼びかけ人代表の永六輔さんの講演会を開きました。

あの震災の後に後次々と起こった大災害、無差別テロ、信じられない事件…。今振り返るとあの地震はその後の19年のとてつもない悲しみと無数の死を予感していたのだと思います。そして、2011年3月11日…。阪神大震災の経験が3年前の東日本大震災でもほとんど生かされませんでした。避難所のバリアフリーも実現せず、知的障害といわれるひとびとが避難でき、助け合える避難所は数少なく、また仮設住宅での生活が障害者の自立生活を困難にしています。
わたしたちの社会は19年の時を費やしてもまだ、「安全で平和な社会」のあり方を見つけ出せないでいます。けれども、共に生きる勇気を育てること以外に「安全で平和な社会」をつくれないこともまた、たしかなことなのだと思うのです。わたしたち人間は言葉も個性も希望も夢も国籍も民族も性別も年代もちがっても、つながることができることを、2度の大災害をくぐり抜け、助け合うことでしか生きてこれなかったわたしたち人間自身が学んできたはずと信じてやみません。

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