世紀を刻んだ歌-ヘイ・ジュード・革命のシンボルとなった名曲

2002年、大きな反響を呼んだドキュメンタリー番組「世紀を刻んだ歌-ヘイ・ジュード・革命のシンボルとなった名曲」が2月7日午前9時より、NHK BSプレミアムでアンコール放送されます。わたしはこの番組をリアルに観ていて、再放送を楽しみにしています。

1968年、ほんの短い間チェコスロバキアに実現した自由な政治体制(人間の顔をした社会主義)「プラハの春」は、8月20日、旧ソ連軍の戦車によって踏みにじられました。
「プラハの春」の短い期間に「マルタの祈り」でデビューし、国民的歌手になったマルタ・クビショヴァは、はじめてのアルバムの最後の曲にビートルズの「ヘイ・ジュード」を収録したいと思いました。
当時、オノ・ヨーコと新しい人生をはじめていたジョン・レノンとシンシアとの離婚問題の最中、ふたりの子供・ジュリアンをはげますために、ポール・マッカートニーはラブソングに仕立てた曲を作りました。8月に発売された「ヘイ・ジュード」は、ビートルズ最高のシングルヒットとなりました。そしてチェコのつかのまの自由が押しつぶされようとする時、この歌は高い国境の壁を越え、マルタ・クビショヴァに届いたのでした。ラブソングは女性が女性に語りかける歌詞へと変わり、自由と平和を求める民衆の歌となりました。
番組はそのために歌うことをやめさせられ、レコードをすべてこわされされたことや、その後の21年にわたる苦難の時代を、彼女へのインタビューを交えながら語っていきます。
1989年、ベルリンの壁の崩壊から一挙に東欧諸国の民主革命が実現します。チェコでは11月17日に自由を求めた学生デモを機動隊が弾圧し、学生が虐殺されたことからはじまりました。24日、26日と数十万人の集会が開かれ、27日のゼネストをへて、12月10日新政権の誕生まで、たった3ヵ月のことでした。
チェコの革命は実に静かに非暴力的に行なわれたことで、「ビロード革命」(やわらかな革命)といわれています。そしてその革命を裏でささえたのは学生と音楽家たちでした。集会やデモの演説の間に、ロックやフォークの人気歌手が歌いました。その集会の場にマルタも立っていました。「マルタの祈り」を歌いだすと、80万人の大合唱になったと言います。
何人かの学生が「マルタさん、わたしたちの大学で歌ってください」と、彼女に声をかけました。その時彼女は革命の象徴となった「マルタの祈り」を歌うのだと思いました。しかし、学生たちは「ヘイ・ジュード」を歌ってほしいと言うのです。「あの歌はレコーディングの時しか歌っていないので自信がない」と言う彼女に、学生たちは言いました。
「だいじょうぶです。ぼくたちが知っています。いっしょに歌いましょう」。
ポール・マッカートニーがラブソングに仕立て、ジュリアンのためにつくった「ヘイ・ジュード」は、チェコの長い21年の時を革命の歌として、多くの人々の心から心へとひそやかに歌い継がれていたのでした。
できすぎた物語といえるこの実話が伝える音楽のすごさにわたしは圧倒されました。

1968年は世界でも日本でも激動の年でした。1月・東大紛争のはじまり。2月・成田空港(東京国際空港)反対運動、金嬉老事件。3月・南ベトナムのソンミ村でアメリカ軍による村民大虐殺事件。4月・キング牧師暗殺。5月・フランスの五月革命。6月・ロバート・ケネディがロサンゼルスで狙撃され、翌日死亡。小笠原諸島が日本に正式復帰。10月・スエズ全域でアラブ・イスラエル戦争。国際反戦デーに全学連が防衛庁や国会構内に乱入・新宿駅に放火(新宿騒乱事件)。12月・3億円強奪事件、米宇宙船アポロ8号による世界初の月面テレビ生中継…。
そのころのわたしは体をこわし、貯金を取り崩しながら友だちと6人で暮らしていました。社会とかかわることがまったくできない孤独感をいきがりでごまかし、大学紛争に参加している同世代の若者に「内なる国家、内なるファシズムこそが問題や」とか屁理屈を言っていました。
そんなわたしにも青い時というのがあったとしたら、やはりこの時代を思い出してしまうのです。時代の匂いは否応なくわたしの心をはげしくゆらしていました。
自分の人生が他人の人生と共にあることを、テレビに映されるさまざまな出来事がわたしにも関係があることを知るにはまだ長い時が必要でしたが、それでも言葉にできないむなさわぎがいつもふつふつとわいてくるのでした。そんな青い時に流れた歌が「ヘイ・ジュード」だったのです。

ビートルズはわたしがはじめて聴いた英語の歌でした。1962年、初のシングル「ラブ ミー ドゥー」でレコードデビューしたビートルズの波は、北大阪の片隅でうずくまるわたしの上にも押し寄せてきました。1966年の日本公演のさわぎは大変なもので、「日本武道館をそんな連中に使わせるな」、「青少年を不良化するビートルズを日本から叩き出せ!」と大人たちは大合唱しました。警視庁は「ビートルズ対策会議」を開いて、ビートルズ来日公演に機動隊など延べ3万5千人を動員することを決定しました。竹中労の名作「ビートルズ・レポート」が伝えたように、70年安保闘争の最終局面の予行演習をもくろんだのだと言われています。
ビートルズとファンがつくる社会現象が大人たちの反感を買うたびに、ますますわたしは大人の社会と対決しなければならないのだと思いました。それは大学紛争や安保闘争に参加する形でかかわれないわたしまでもが参加する、「自由であること、自分らしくあることを求める、もうひとつのかくめい」だったのです。
いまふりかえってみると、すでに解散へと向かっていたビートルズにとって「ヘイ・ジュード」は単なるラブソングではなく、別々の道を進もうとするビートルズ自身と、世界中のわたしたちへのメッセージでもあったのだと思います。くしくもそのB面には「レボリューション」が入っています。
時代が激しく燃え上がりながら転がり落ちることを準備していた1968年。それはわたしが6人の「隠れ家」から出て、もう一度最初から社会とかかわっていくことを教えてくれた年でもあったのです。
(2003年4月、豊能障害者労働センター機関紙「積木」掲載記事を加筆修正しました。)

Paul McCartney - Hey Jude Live at Hyde Park

>Marta Kubišová - HEY JUDE (DLOUHY PUST M.K.) - @tubasarecords2

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