聴こえなくても聴こえてると小島良喜は言った

難聴のRさんが豊能障害者労働センターにやってきたのは2000年の夏でした。子どもの頃、鶏のえさを体中にぬりつけられて鶏小屋に閉じ込められたこと。高校生の頃はつっぱって、梅田の繁華街を闊歩していたこと。そんな痛い日々を重ねて、彼女は大人になったと聞きました。

難聴の彼女にとって、音楽との出会いは幸せなものではありませんでした。街は音の洪水です。いつでもどこでも音がわめいていてわたしたちもついつい、大きな声でがなりたてています。大きな声でがなりたてるのに、なにひとつ伝えられない、なにひとつ聴こえてこないことに気づいた時、わたしたちはいたたまれない悲しみにおそわれます。
風の気配、土をふむ音、鳥のさえずり、夜の沈黙、光のおしゃべり、星の合図…。世界はこんなにも静かなコミュニケーションにつつまれているというのに、わたしたちはそれを聴きとる力をなくしてしまったのではないかと思います。
ですから、彼女にとってラジオやテレビから聴こえてくる歌がほとんど雑音でしかなかったのはしかたのないことでした。けれどもわたしは、聴こえにくい彼女に音楽をつたえたくて、そのころ時々行っていた箕面のバーのマスターにたのんで、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンのCDをかけてもらいました。
事情も聞かずにマスターはお店のスピーカーを彼女の方向に向けて、大きな音でかけてくれました。そしてわたしは、「日本にも小島良喜というすごいピアノひきがいるねん」と言いました。

それからしばらくして、小島良喜が近藤房之助と梅田のブルーノートに来た時、彼女ははじめて小島良喜のピアノと出会いました。そして、彼女は言いました。「ピアノの音がわかった。小島さんが弾くピアノの上に寝転がって、音を感じていたい。」
わたしはその時、小島良喜のコンサートを実現したいと思いました。実際のところ、豊能障害者労働センターは組織力もお金もなく、そのころも今もコンサートを成功させる力はありません。けれども、たったひとりのためのコンサートがあってもいいと思ったのです。たったひとりの心に届く音楽だから、多くの心に届けたいと思いました。
その後おっかけるように、わたしたちは神戸のライブハウス・チキンジョージのライブに行きました。金澤英明のべースも入り、彼らのブルーズがすくい上げる音たちがからみあい、ゆるしあい、たすけあいながら、聴く人の心のかたくなな部屋のとびらをたたきつづけました。そして扉は開き、わたしたちは音の洪水につつまれてしまいました。「ああ、これが音楽なのだ」と思いました。
昔、アメリカの黒人が奴隷解放後の南部の農場を渡り歩き、やがてシカゴやデトロイト、ニューヨークなど北部の都市に移動する中で、ブルーズは生まれたといいます。彼らはバンジョーやギターを背負い、街から街へと旅を歌い、故郷を歌い、恋を歌いました。この日のライブを聴いていて、1900年代のブルースが時代と国境をこえ、いまわたしたちの心に届いたのだと思いました。

ライブの後、箕面に来てくれないかとお願いすると、小島良喜はあっさり「いいよ」と言ってくれました。
そして、Rさんが難聴だと聴くと彼は言いました。
「だいじょうぶ。聴こえなくても聴こえてる」。

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