カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」の販売にご協力を!

一日一日をだきしめたくなるカレンダーです。

今年もまた豊能障害者労働センターが制作販売するカレンダー「やさしいちきゅうものがたり」をご案内する季節になりました。
1985年から2005年までの故吉田たろうさんのイラストによる「季節のモムたち」が21作、そのあとを引き継ぎ2006年からの松井しのぶさんのイラストによる「やさしいちきゅうものがたり」が11作と、すでに32作を数えるまでになりました。
1982年、豊能障害者労働センターは静かな出発をしました。当時、養護学校高等部を卒業したひとと地域の中学校を卒業したひと、その2人の脳性まひの障害者をふくむ5人の専従スタッフと少ない市民がお金を出し合って活動を始めた事務所はバリアフリーどころか隙間だらけで、冬には飲み物が凍らないように冷蔵庫に入れなければならない築30年の民家でした。
一般企業への就職も拒まれ、在宅か施設しか生きる場がないのなら、自分たちで事業してお金をつくりだし、みんなで分け合って暮らしていこうと、粉せっけんの配達販売からたこ焼き屋、衣料品店、大衆食堂、リサイクル、古本、点訳と事業を広げていきました。33年の歴史の中で、その時々のスタッフたちが一生懸命活動をつづけてきた果実は、障害者スタッフ37人をふくむ57人の大所帯となり、地域の5つのお店を障害者スタッフが運営し、事務所では通信販売、毎年恒例となった春の大バザー、障害者問題や危機管理などの勉強会や無農薬野菜の栽培など、幅広い活動をするまでになりました。
1984年、関西を中心に結成された障害者ネットワークのもとで共同制作をはじめたカレンダーは、親元や施設ではなく自立した暮らしをするための給料をつくり出す活動を全国の障害者によびかける活動でもありました。実際のところ、今でも障害者があたりまえの市民として暮していくことをはばむさまざまな問題がありますが、当時は介護保障もほとんどなく、障害者年金だけでは生活できない厳しい現実がありました。豊能障害者労働センターは地域活動を通じて障害者の問題を町全体の問題として訴えたことを、カレンダー販売を通じて全国に展開しようと考えたのでした。
その思いに応えてくれたのが、現在被災障害者支援・ゆめ風基金の代表をされている牧口一二さんと故吉田たろうさん、朝倉靖介さんでした。吉田たろうさんが渾身の思いで描くイラストを中心に3人の共同経営のデザイン会社「おばけ箱」の制作協力により、カレンダー「季節のモムたち」が誕生しました。モムとは自然を大切に育てるために働く小さな森の妖精で、吉田たろうさんが継続可能な地球環境を願ってつくられたキャラクターの名前でした。
障害者の給料をつくり出すために企画されたカレンダーは同時に、地球環境をこわさない持続可能な未来を願い、人権と環境を視野に入れた切ない夢をこめたメッセージ商品としてデビューしたのでした。

2003年、特別な思いを持ってカレンダーの制作を支えてくださった吉田たろうさんが急死し、カレンダー製作は終了するところでした。障害者をとりまく環境も大きく変わろうとしていました。数多くの障害者のグループがカレンダー事業によって得た幾ばくかの収益を年末一時金や財政赤字を補てんするために積極的に参加していましたが、2006年の障害者自立支援法施行をひかえて、多くの障害者のグループは障害者の介護派遣に伴う国の事業のもとでの活動をめざすようになり、カレンダー販売事業の役割は終わろうとしていました。
しかしながら、障害者の所得をつくり出す活動も役割を終えたのかというと、ほとんどの障害者が施設か親元にいる現状は変わらず、自分らしく生きるために親元を離れて暮らす障害者のほとんどは生活保護に頼らざるを得ない現実が今もあります。
障害者の給料をつくり出す活動は福祉という枠組みの中では役割を終えたのかも知れません。しかしながら、高度経済成長の時代を通り過ぎ、GDPでは測れない低成長下の豊かさを求めて模索をつづける日本社会全体を見渡せば、福祉制度にたよるだけではなく障害者が運営を担い、みずから給料をつくり出す社会的企業としての豊能障害者労働センターの役割はより高まるのではないか。そう考えた豊能障害者労働センターは自らがカレンダーの制作を引きつぎ、独自のネツトワークによる社会的事業としてカレンダーの共同販売を進めることになりました。
豊能障害者が事業の責任主体となることで、障害者に限らず社会から排除されている人々の雇用と生活をつくり出し、また社会から排除されてはいないものの、心の中で生きにくいと感じる数多くの人々と共に生きる勇気を分かち合いたいと言う願いも、カレンダー事業に込められるようになりました。
さらには、アメリカ同時多発テロに始まった21世紀はアフガニスタン、イラク、シリアとつづく悲惨なテロや紛争や国内外の自然災害によって無数の命がうばわれてきました。瓦礫の上に広がる夜空を見上げ、にじむ星を見つめながら心を縮ませ、銃撃と爆音のない明日を切実に願う子どもたち…。届かぬまでもそんな子どもたちに楽しいはずの未来を用意できる平和への願いもまた、カレンダーの大切なメッセージになりました。
それぞれのちがった個性を引き算することではなく、足し算していくことでゆたかになる社会をつくりたい。ひとを傷つけることもひとに傷つけられることもなく平和で差別のない社会をつくりたい。どこからともなく押し寄せるグローバル経済に翻弄されず、顔の見える「市場」を育て助け合う夢みる経済をつくりたい。この星を分かち合い、共に生きる勇気をたがやしたい。
カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」はそんな精いっぱいの思いと静かな決意を綴る、豊能障害者労働センターの一年分の手紙となりました。
わたしは2003年の暮れに豊能障害者労働センターを退職しましたが、カレンダー事業については福祉の枠を超えた事業として生まれ変わるためにプロデュースを引き受けることになりました。そして、わたしたちの切ないメッセージを具体的に表現してくれるイラストレーターを一年かけて探し続けました。そしてとうとう、わたしたちの思いと夢と未来までも描いてくれるイラストレーターを見つけることができました。
そのひとこそが松井しのぶさんでした。松井しのぶさんとの奇跡ともいえる出会いは別の記事を読んでいただくとして、彼女との出会いがなければカレンダー事業は終っていたでしょうし、障害者問題から派生するより多彩で幅広く、来るべき時代への提言と見果てぬ夢の実現を願う、ふところの深いカレンダーにはならなかったと思います。
松井しのぶさんのイラストは、わたしたちにも想像が及ばない未来から届いた手紙のようです。そのイラストの奥にある薄明るいすりガラスの透明な世界、だれもが整理整頓できないまま心のタンスにしまいこんだ記憶、せつなくも愛おしい見果てぬ夢がたどり着くべき未来への予感、そして時には厳しい現実や悲しい出来事に打ちのめされた心にやわらかな光が届き、そのぬくもりに抱かれひとときの眠りに癒される…。
春夏秋冬、季節の風が描く風景の奥に隠れている薄明るく懐かしい「やさしいちきゅうものがたり」に魅入られ、わたしたちは部屋の壁でいつも見守ってくれる季節の物語なくしては明日を生きられないような、切ない思いに憑りつかれてしまうのでした。
ふたたび世界の現実に目を向ければ、カレンダーのどの1日からも悲鳴が聞こえてきます。1995年1月17日、2001年9月11日、そして2011年3月11日と、世界の悲しい記念日はひとりひとりの死をかくしたまま、何千、何万、何百万と死者の数を数え、積み重ねてきました。けれどもその一方で、この世界に生きる60億の人々のだれかの誕生日でない日などないのかもしれません。さよならを数えるカレンダーもあれば、いのちと出会いと愛を数えるカレンダーもまた、たしかにあるのだとわたしは信じたい。
一日一日をだきしめたくなるこのカレンダーがつむぎだす時の物語が、これから先どんなひとのどんな部屋に掛けられ、どんな日々を見守ってくれるのかと、期待とせつなさでいっぱいになります。

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