沖縄と戦後民主主義・知花昌一さんの話を聞いて

9月26日、能勢町の浄瑠璃シアターの小ホールで、知花昌一さんの講演会がありました。わたしは「憲法カフェ・能勢」に参加している関係で、受付スタッフとして参加しました。
知花昌一さんといえば反戦地主の闘いや、1987年沖縄国体での日の丸引きおろし・焼き捨て事件などで有名な反戦・平和運動家で、現在は真宗大谷派の僧侶としても活動されている方です。
わたしは知花昌一さんのことに限らず、恥ずかしいのですが沖縄のことはほとんど知らず、また一度も沖縄に行ったこともないので、お話を聞くのを楽しみにしていました。
ところが、受付スタッフだった関係できっちりと聞くことができず申し訳なく、また残念でもありました。
その中でもまず心に残ったのは、「辺野古新基地建設は第5の琉球処分」と話されたことでした。一度目は琉球王国廃止・薩摩支配~沖縄県設置、二度目は沖縄戦、三度目はサンフランシスコ講和条約、四度目は本土復帰と話をつづけられました。
1947年生まれのわたしは、ほんとうのところ戦前戦中の歴史の実感がないまま戦後民主主義の社会で生きて来ました。その間に沖縄のことは子どものころも若いころも、そして大人になってから今にいたるまでも、日本の中のひとつの地域とだけしか認識くせずどこか無関心でした。知花さんのお話を聞きながら、実は日本の戦後民主主義が沖縄の犠牲のもとにつくられた砂上の楼閣と言っても過言ではないことを改めて教えてもらいました。
沖縄県の翁長雄志知事は仲井真前知事による辺野古埋め立ての承認の取り消しをしようとする一方、9月21日、スイスで開かれている国連人権理事会で演説し、アメリカ軍普天間基地の移設計画について、沖縄に米軍基地が集中する実態を紹介し「沖縄の人々は、自己決定権や人権をないがしろにされている」と訴えました。
知花さんはその問題に触れて、「本州では沖縄の基地は安全保障という政治問題とされているが、沖縄では人権問題ととらえ、訴えている。翁長知事は自民党の議員だったひとで、安保条約には賛成なんです。沖縄では、いわゆる保守と言われる人々もまた普天間基地の辺野古への移設に猛反対している。」と話されました。
古くは薩摩の琉球処分、そして本土防衛の犠牲になった沖縄戦、戦後の占領政策をへて日本が主権回復したとされる1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約によって、沖縄はアメリカを唯一の施政権者とする信託統治制度の下におかれました。
当初は一部では日本の支配から解放され、独立する契機ととらえるひとたちもいたと言いますが、その後の沖縄は本州の基地が少なくなっていくことに反比例するように基地が増えていきました。(現在、在日アメリカ軍専用施設の73.8%が、日本の国土の0.6%の面積しかない沖縄に存在しています。)
しかも、基地にされた土地は本州に比べて私有の農地が多く、土地を奪われることは職を失うことでありました。基地によって経済が潤ってきたではないかと言われますが、最近では沖縄県民の総所得に占める基地関係収入の割合は5%過ぎず、基地が沖縄経済を圧迫していると言う人もいます。
そして、1972年5月15日の「本土復帰」。「本土並み復帰」と言う声ばかりが聞こえていましたが、本土並みどころか基地はそのまま残し、ますます日米安保条約のもとでのアメリカの軍事戦略の重要拠点になっていきました。
この70年間で、アメリカ軍基地に関連する多くの事件・事故が起こり、そのたびに加害者のアメリカ兵が責を負うことも裁かれることもなく、沖縄のひとびとの人権はことごとく奪われてきました。一方、思いやり予算として施設にかかわる費用は日本政府が負担しつづけてきました。沖縄が法治国家・日本に所属する一地域であるとはとうてい言えず、信託統治の時代から本土復帰後現在に至るまで理不尽なことが70年も放置され、増殖されてきたことをあらためて痛感します。
沖縄県の翁長雄志知事の演説に対して、日本政府は普天間飛行場の辺野古移設は日米間の国防外交政策であると反論しましたが、沖縄で昔もいまも起こっている人権侵害や差別、そして環境問題にしっかりと向き合えば、沖縄の基地の問題は政治的な問題ではなく人権問題だと世界にアピールした沖縄県の翁長雄志知事の行動は画期的で、その対象はわたしたち日本人すべてでもあると思いました。
もうひとつ印象的だったのが、1972年の本土復帰運動の時、知花さんをはじめたくさんのひとびとが日の丸を掲げ、平和憲法のもとで奇跡の復興を遂げた日本社会に復帰することは長年の苦闘から解放され、自分のこと、自分の地域のことを自分で解決する権利を得ることと信じたという話でした。
日本にもアメリカにもあたりまえの切ない夢を踏みにじられてきた沖縄…。短い時間でしたが知花さんのお話を聞き、いままで沖縄のほんとうのことを知らなかっただけでなく、知ろうとしてこなかった自分が恥ずかしくなりました。
最後に、今回の安保法制関連法によって集団的自衛権の行使を認めるようになった日本は、知花さんたちが1972年の復帰運動の時に夢みた憲法の下での輝かしい民主主義国家ではなくなってしまった。しかしながら、シールズをはじめとする若い人たち、子育て中の女性たちをふくむ老若男女が自分の意志で集まり、自分の思いを自分の言葉で語る姿に、かすかな希望を感じると話されました。
知花さんの話を聞き終え、沖縄の土地も沖縄の人々の切ない願いも奪い、無数の屍とたくさんの犠牲の上に、わたしの生きて来た戦後民主主義があったのだと痛感する一方、それでも知花さんがシールズに希望を託し、一緒に行動しようと思う瑞々しい心に感動しました。知花さんがシールズに託す希望は、本土のわたしたち団塊の世代が安易に彼女たち彼たちに同調するのとはちがう説得力がありました。
1972年に知花さんのひとみに輝いて見えた日本社会のありようは、たしかに沖縄を排除して築き上げたものだったのかも知れないし、その輝きはまがい物であったのかもしれません。だからこそ今、もう一度70年前の瓦礫とともに捨ててしまった希望と夢を取戻し、新しい民主主義と世界の宝・日本国憲法のもとで、ひとを傷つけることもひとに傷つけられることもなくしていく努力をつづけたい。そしてだれもが安心してくらし、平和で助け合える日本と世界をつくるために、親鸞ではありませんがまず隣のひとと手をつないでいこうと思いました。

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