細川たかしと島津亜矢「哀愁列車」

9月24日、テレビ大阪(テレビ東京系列)の「木曜八時のコンサート」に島津亜矢が出演しました。この日は2時間のリクエスト特集で最初に「柔」を歌い、もう一曲の「哀愁列車」は細川たかしとのコラボレーションで歌いました。 わたしがこの番組をあまり好きではない理由のひとつが美空ひばりへの安易な依存にあることはこのブログでもたびたび書いていますが、そのうちの最たるものが美空ひばりの声で番組を始めることでしたが、さすがに最近それはなくなりました。 わたしは戦後の歌謡曲を牽引しただけにとどまらず、戦後の復興から高度経済成長をささえたひとびとの心のよりどころだったといえる天才・美空ひばりの存在を否定するものではありません。しかしながら、先日のテレビ朝日のミュージックステーション30周年記念番組での「日本の歌100曲」にランクされるJポップが若い人々だけではなく、68歳のわたしの年代においても懐かしい歌となっている現実があります。 それに対して演歌・歌謡曲は音楽的な野心も冒険もなく、旧態依然の枠組みにしがみつきながら少ないお客さんをとりあっているようにしか見えません。Jポップがスタジオからスマホへとバーチャル化し、仮想現実の中での恋愛や友情を垂れ流す絶望的な状況になっているように見える今、いまこそ歌謡曲とJポップがもう一度合流し、新しい日本の歌がうまれることを切望します。 思えば、美空ひばりはワールドワイドな「日本の歌手」で、彼女を後年の「演歌」の枠組みに閉じ込めてしまったことがいまの演歌界の惨状をつくったともいえるのではないでしょうか。かなり早くに彼女の歌にブルースの匂いを嗅いだ竹中労がジャズ版のアルバムをつくった時、「この天才歌手が世界のトップクラスであることを証明したいと思ったが、そんなことをしなくても彼女は彼女のままで偉大な歌手であることを痛感した」というようなコメントを残していますが、演歌の中にジャズを、ジャズの中に演歌をかくす独特の歌唱はたかだか1970年以降に確立された「演歌」の枠組みにおさまるはずはなかったのだと思います。 しかしながら、今の演歌の歌い手さんたちが彼女を尊敬するあまり、彼女の才能を「四畳半」のせまいお座敷の上でしか理解しないように思えてとても残念です。 さて、前段でまた持論を披瀝する過ちを犯してしまいました。お許しください。

 今回の放送は視聴者のリクエストで懐かしい曲をオリジナルの歌手が歌う一方、今の歌い手さんがカバーする構成で、この番組でよく演出されている舞台の左右に出演者が座り、時には2人や数人でつぎつぎと往年のヒット曲を歌っていくのですが、オープニングを全員で歌った後、トップバッターとして島津亜矢が「柔」を歌いました。 ついでに言うと、この番組の音響は会場で聴いた場合は別にして放送用としては残響が強くて歌声がこもって聴こえることが多く、今回の放送でもあまりよくない音響でしたが、彼女はそれをもろともしない声量と表現力で、見事に歌い上げたと思います。 美空ひばり特集で島津亜矢といえば「柔」というのが定番になってしまい、「みだれ髪」や「函館山から」を歌うことは滅多になくなってしまいましたが、それもしかたがないのかも知れません。いまこの歌を正面から歌える歌手は数少ないと思います。戦後すぐ、美空ひばりがリンゴ箱に立って歌ったという伝説がありますが、畳の上ではなく時には瓦礫の中で大地を踏みしめて歌える島津亜矢の歌には、美空ひばりへの尊敬と敬意にあふれていて、本来の意味の「リスペクト」が伝わってくるのです。 NHKの歌謡コンサートで何度も歌っている「柔」が、今回は音響がよくない分だけ、かえって彼女の底力を知らしめた感があります。実際、他の歌手が手拍子したり口ずさんだりと、お祭りのような感覚のように見えた中で、ただひとり後で共演する細川たかしが無言で耳を傾け、歌が終わった後、隣の席にエスコートするそぶりが印象的でした。彼がひそやかに島津亜矢の実力を認め、後輩でありながらライバルとも思っていることがわかった気がします。 そして「哀愁列車」。今回は三橋美智也の弟子でもあった細川たかしとの共演でこの歌を歌いました。この時もまた左右に歌い手さんが並び、お祭り気分がただよう雰囲気でしたが、この二人だけはちがっていました。 細川たかしは時々、あふれる声量から音程を高めにはずすような歌い方をするのが苦手なんですが、三橋美智也の歌を歌う時は正統派の歌唱でさすがに上手いと感じます。とくに今回の放送では特別の心情を隠しているようで、ひとつは師匠へのリスペクトと、もうひとつはわたしの思い込みかも知れませんが島津亜矢とのコラボへの意気込みを感じました。 実際、この日の細川たかしの歌唱はすばらしく、島津亜矢を圧倒する感がありました。しかしながら、少しキーを落として島津亜矢が歌い出すと、「柔」の時と同じようにうなずいて、彼女の歌を深い所で認めていることが良くわかりました。このひとはとても勉強家でもあり好奇心の旺盛なひとで、島津亜矢にけっこう以前から注目していることが垣間見えたような気がします。 島津亜矢の方は最近の彼女らしく目立たないように歌った感がありますが、それでもこの歌の風景を見事によみがえらせてくれたのではないでしょうか。1956年に発表されたこの歌は「ポー」と鳴り響く蒸気機関車が発車するプラットホームを舞台に繰り広げられる切ない別れをオムニバス形式で歌ったものだと思います。 地方から東京へと、上野駅につぎつぎと到着する機関車からひとびとが野心と希望をかついであふれかえった時代に、すでに東京に絶望して故郷に帰るもの、いやそれよりも帰る故郷もなくしてしまった東京難民ともいえるひとびとが現れ始めたことを今に伝えるこの歌は、日本の戦後が復興から経済成長へ、そして成長することがほんとうにいいいのか問い直さなければならなくなった現代までをずっと見通した今の歌なのかもしれません。 戦後の日本は瓦礫をかたづけることでとても大切なものまでかたづけてしまったのでしょうか。たとえば都市ではいつもスピーカーを通した雑音に囲まれ、ほんとうに受け止めなければならなかった大切なメッセージを聞き逃してしまうように。 そしてわたしにとっての「哀愁列車」は子どもの頃の280円の中古ラジオから聴こえてきた、少しかなしい歌でした。 わたしが子どもだった頃、早朝から深夜まで髪振り乱して大衆食堂を切り盛りしていたわたしの母は三橋美智也のファンでした。テレビもなかった時代にはるか遠い荒野をひた走り、時々突風のような雑音にかき消されながら我が家のラジオにこの歌が届くと、仕事の手を止めて耳を傾けていた母の後ろ姿を思い出します。 日本全体が貧乏で、不安定なグライダーのようにいつ瓦礫の上におちるかも知れなかった頃、幸せな明日を信じて必死に働いた日本人の中にわたしの母もいました。女性としてよりもシングルマザーとしてわたしと兄を育て上げることだけに生き、死んでいったといっていい彼女の、ほんとうにささやかなたったひとつの楽しみが三橋美智也の歌でした。 女一人で二人の子どもを育てる母に言い寄る男をはねのける気丈さを持たなければならなかった母にも、ほんとうに心を通わせ、助けてくれた男の人への秘めた恋心もあったはずで、「哀愁列車」を聴きながらその隠れた恋をあきらめとなぐさめとともに心のタンスに封じ込めていたのだと、今では想像できるのです。

島津亜矢「柔」

美空ひばり「柔」

島津亜矢「哀愁列車」

三橋美智也「哀愁列車」 

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