ブラームスはお好き?

9月20日、大阪府豊中市岡町の「桜の庄兵衛ギャラリー」に行きました。この日、最近知り合ったヴィオラ奏者の吉田馨さんからお誘いをいただき、彼女とピアニストの塩見亮さんによるブラームスの室内楽を聴きにいくことになったのでした。
クラシックのコンサートといえば、この歳になるまで子どもの合唱に再三行った以外は2、3回しか聴いたことがなく、場違いかなと思いつつおそるおそる会場に行きました。
「桜の庄兵衛ギャラリー」は江戸時代の姿を残す庄屋さんの民家で、阪神淡路大震災で大きな被害にあいましたが1998年、修復再生を機に本来客間であった五十畳余りの空間をギャリーとして開放し、コンサートだけでなく木工、陶器、染め物などのアート展示場としても幅広く利用されています。コンサートだけでも今回で80回をかぞえ、クラシックにかぎらずジャンルを越えたコンサートが開かれてきました。
大きな門を通り、広々とした土間から庭につづくギャラリーの大広間に入ると、大きな柱と梁と白い障子戸がこれからはじまる演奏会への期待をふくらませ、、見上げると高い天井から暖かいライトがやさしく会場を包んでくれます。
最近、よく見かける日本建築のコンサート会場のひとつではありますが、この会場の場合は昔のままでもなく、かといって昔を真似たあざとさもなく、古民家の様式をくずさないままコンサート会場としての空間設計を意図的にされている感じがしました。それはおそらく、修復時に当主が古民家の保存だけではなく、文化の発信拠点として地域に開放し、地域コミュニティの成熟にこの建物を生かしたいと考えられたからだと思います。

いよいよ開演となり最初に2人が登場し、自己紹介がてらにシューマンの「アダージョとアレグロ」を演奏しました。(もちろん、クラシックをほとんど知らないわたしですから、曲名はプログラムにあるままを書き写しています。)
吉田さんのMCのあと、ブラームスの「6つの小品 作品118」を演奏された塩見亮さんのピアノソロは不思議なみずみずしさと独特のリズム感があり、ピアノという楽器のなまめかしさ、音の原石から音楽を発見していく切迫した緊張感にあふれていました。また曲調のちがう6つの小曲の連作は、ブラームスの年老いた恋心と切なさとあきらめと甘美な思い出にあふれ、寂寥感を漂わせていました。
わたしが親しんでいるポピュラー音楽の場合、若いプレイヤーや作詞作曲家は一度しかない若さがその魅力となることが多いのですが、クラシックの場合、先人たちがそれぞれの年齢と伴走する様につくられた曲を何百年以上もの長い年月、数えきれない演奏家が残された楽譜をたよりに、音楽の生まれる約束の泉へとたどりつこうと厳しい練習と表現力を高めてきたのですね。
塩見さんの演奏を聴き、楽譜に記された「シナリオ」はごく一部で、音楽そのものが大いなる記憶と見果てぬ夢を持っていて、楽器を手にする若い人々に等しくその記憶と夢を惜しげなく手渡していく、そこにクラシックがいつまでもひとびとを魅了し続ける理由があるのだと、少し理解することができました。

休憩をはさんで2部はブラームスの「ヴィオラソナタ第1番ヘ短調作品120-1」でした。
塩見亮さんのピアノが語り始めるやいなや、吉田かおりさんのヴィオラが歌い出し、心をかきむしられるようなせつなさが会場いっぱいにあふれ、落ち着いて聴いていられないほどの激しい感情の揺れにおそわれました。
このいたたまれない心の震えはなんでしょう。いっそのこと、このせつなさが歌のように言葉になっていたら安心できるのですが、ヴィオラとピアノによる涙の海はたどりつく岸辺も見つからないまま、わたしの心を沖へ沖へと連れ去ってしまうのでした。
吉田馨さんのヴィオラを聴いていて、わたしには若い彼女が涙の海の浅瀬に立ちつくし、老いたブラームスの心にやけど覚悟でさわろうと必死にもがいているようで、その息づかいがとても魅力的に思いました。
わたしの悪いくせで、この鬼気迫る演奏を聴きながら、まったくかけはなれた歌謡曲(?)を思い出していました。その歌とは小椋佳が作詞作曲し、美空ひばりが歌った「函館山から」という歌です。数多くの名曲をつくった小椋佳ですが、わたしは「山河」という歌とともに、「函館山から」が大好きで、小椋佳の最高傑作だと思っています。
私自身の経験でもありますが、若い頃にはひとを傷つけたりひとに傷つけられても、心に刺さった矢は時速250キロで駆け抜ける若さと言うスピードが抜き去ってくれました。しかしながら、歳を重ねるほど心に刺さった矢はしだいに抜けにくくなり、気づくと何本もの矢が刺さったまま取り返しのつかない人生をふりかえるようになってきます。
青春の浜辺に激しく打ち寄せた波が去り、浜辺に残った青春の抜け殻をひとつひとつ拾い始める時、ひとは自分がすでに大人になっていることに気づくのでしょうか。
「今はただ胸にしみる ひとりの寒さよ おまえはもう若くはないと とどろく波よ」
(小椋佳「函館山から」)

ブラームスがこのソナタをつくったのは亡くなる3年前の1894年といいます。さまざまなことがあったはずの人生を振り返り、記憶の中の報われぬ恋や友情に思いを馳せながら、すでに死が隣り合わせにあることを感じ、それでもはげしく生きようとする情熱と切ない希望と音楽への限りない愛情が、このソナタにいっぱいつまっているような気がします。
言葉をなくしてしまいそうなすばらしい音楽を知ってしまったわたしは、すでにクラシックの魅力にとりつかれそうで正直怖いです。 そういえばずっと昔、豊中市庄内の音楽大学のそばにあったジャズ喫茶店に入り、マスターにジョン・コルトレーンの「至上の愛」をリクエストし、わたしがはじめて出会ったジャズですと言うと、「あんたは不幸な奴や。これがジャズとのはじめての出会いなら、他のジャズがきけなくなるよ」と言われたことがあります。
もしかすると、わたしがはじめて出会ったクラシックがブラームスで、しかも晩年のブラームスが万感の思いをこめて次の世代に託したこのソナタだとしたら、それもまた不幸なことなのかも知れませんが、同時にこの年齢になってわたしのために届けられた最高のプレゼントなのかもしれません。
最後に、こんな珠玉の時を用意してくれた吉田馨さん、塩見亮さん、そしてなによりも「桜の庄兵衛ギャラリー」のボランティアスタッフの方々に感謝します。

Brahms viola sonata op. 120 no. 1 in F minor

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