ピンクさんのこと・PEACE MARKETへの道7

島津亜矢の「のど自慢」と「歌コン」の感想、そしてつい先日「世界の終り」のコンサートに行ったことなど、書きたいことがあるのですが、目前に迫ったイベント「PEACE MARKET・のせ」の準備がいそがしく、ままなりません。
しかしながら、この催しの実行委員としての思いとは別にどうしても伝えておきたいことがあります。それはすでに亡くなって何年になるでしょうか、豊能町に住み、全大阪というか全国的に市民運動とロックの両輪を精いっぱい生きたひと。能勢にこだわり、伝説となった「青天井」という夜通しロックコンサートを開いていたひと、貧苦の横上に○をつけて「ピンク」と名乗っていたひと、彼について書いておきたいと思います。
といって、ピンクさんとかかわりの深いひとはたくさんいて、べ平連の流れをくむといっていいのか、「今こそ世直しを市民運動」と、ピンクさんが中心にすすめていた「二十世紀の谷間舎」の音楽活動を担っていた人が今でもたくさんいらっしゃいます。また、1970年代初めの関西フォークブームの渦中にいて活躍されていたことから、数多くのミュージシャンとの交流もたくさんあったことでしょう。
わたし自身がそれらの活動に参加していたわけではないので、わたしはわたしとのかかわり以外についてしか言えないのですが、彼の多彩な交友関係の中ではほんとうに小さなつながりでしかなかったことでしょう。
それでもわたしに「音楽」というとても大きな宝物をくれたひとであり、わたしが箕面の豊能障害者労働センターに在職していた時、自分でもあきれるほどコンサートやトークイベントや映画会などをつづけることができたのも、彼のおかげだったと感謝しています。

1982年、わたしが豊能障害センターと出会ったころ、当時豊中に住んでいたわたしは、世の中がひとつの方向に流され、ヒステリックに「正義」やだれがつくったのかわからない「善良な市民社会のルール」を押し付ける風潮に囲まれているようで息苦しく感じていました。ある夜、近所の川のそばでたむろしている若者たちと知り合いました。
話しかけると人なつっこい若者たちで、深夜に集まって音楽のことやガールフレンドのことなど、他愛のない話をして夜の風に当たりたいだけのようでした。ビートルズしかしらなかったわたしに「アイアンメーデン」など、ハードロックやヘビーメタルを教えてくれたのも彼らでした。付近の住民からは「あそこに悪い子どもらがいる」と警察に通報されたりしていました。
夜に星を見てだべるだけの彼らを「怖いひとたち」と決めつけ、ヘビーメタルを反社会的なものとするこの社会はおかしい。そう思ったわたしは妻と友人の3人で、当時知り合ったばかりの豊能障害者労働センターの助けを借りて、「自由の風穴」というロックコンサートを開くことにしました。このコンサートが、その後たくさんのコンサートやイベントをすることになったわたしの最初のコンサートでした。
謄写版でポスターやチラシを刷り、箕面の産直センターや障害者のボランティアグループに声をかけながら、連日電柱にポスターを張りに行きました。一方、当時若者のカルチュアに大きな影響を与えていた「プレイガイドジャーナル」などの雑誌の無料の投稿欄にアマチュアバンドの出演募集をしたり、箕面の青少年課が当時開いていたアマチュアのコンサートを聴きに行き、よいと思うバンドに声をかけたりしました。
そんな時、豊中の駅前のカレー屋のマスターがバンドをしているという話を雑誌で見て、出演してもらえないかとお店に行きました。そのマスターがTさんで、彼は「トキドキクラブ」というバンドをしていて、すでにプロ以上の実力のあるバンドでしたが快く引き受けてくれたのでした。
コンサートの日か近づくにつれて、人であふれている甘い夢を見ていたわたしですが、そんなことがあるはずもなく、結果は散々なものでした。その時、わたしがホールに座席をいっぱいつくろうとすると、ピンクとは盟友関係にあるSさんが応援に来てくれて、席を50ぐらいに減らしてくれたので正解でした。
Sさんは「今こそ世直しを市民連合」で活躍されていたことなど、なんとなく知っていたのですが、たしか連れ合いさんと先に親しくなり、その関係で応援に来てくれたのでした。その時がSさんとはしめて会ったのですが、それから後、いろいろなことでいつも応援してくれたり、豊中の入部香代子さんの選挙を一緒にやったりして、今でも尊敬する友人の1人です。
ともあれ、そのコンサートが縁で「トキドキクラブ」のひとたちと友人になったわたしは、彼らの音楽を多くのひとたちに聴いてもらえないかと思いました。そこで、Sさんの紹介でピンクさんと出会ったのでした。
こんなところから書いていくと、ひとつの記事ではおさまらないのですが、いままで彼のことについてきちんと書いたことがないので、おゆるしください。

そのころ、ピンクさんは中之島公園で「グラスルーツコンサート」という手づくりコンサートを開いていました。今から思えばちょうど曽我部恵一のような存在で、彼の私物だったとおもいますが、PA機材からアンプ類すべてを自前で調達し、関西のフォークシンガーの友人に声をかけ出演してもらい、音響操作する人はいたと思うのですが時には自分で調整し、自分の演奏もするという、総合プロデーサー兼アーティストとしてフル活動していました。Sさんが声をかけてくれたんですが、あっさり「いいよ」と返事をもらい、わたしもこのコンサートを観に行きました。
会うまでは、どこでそう思ったのか気難しいひとと思い込んでいましたが、とても気さくで面倒見がよく、基本的にやさしいひとでした。と同時に、とことん音楽が好きなんやな、ということが伝わってきました。アーティストとしての野心がなかったはずはないのですが、それよりも「歌いたい、演奏したい」と渇望する若いひとたちに表現の場を用意したいという情熱にあふれていました。頻繁に日曜日に、もちろん無料で開いていたコンサートで、前の座席やその後の広場、そして遠巻きに道路から結構たくさんのひとたちがコンサートを楽しんでいました。
わたしはフォークが多い印象を持っていたこのコンサートに、ジャズのエッセンスを持つ「トキドキクラブ」がマッチするのか少し不安でしたが、スタッフの方々が受け入れてくれてほっとしました。とくにピンクさんがとてもよろこんでくれたことをおぼえています。  ピンクさんがビートルズの大ファンで、しかもあらゆる洋楽に憧憬が深いことも知りました。また彼は訳詩に並外れた才能があり、ジョン・レノンの「イマジン」他、数々のロックの名訳詩をのこしています。ちなみに今回のPEACE MARKET・のせに出演するわたしの友人・加納ひろみさんは、彼の訳詩によるロックで反原発を歌った曲「パワー」を歌い継いでいます。今回も歌ってくれることになっています。
また、できて間のない豊能障害者労働センターが毎週日曜日のカンパ生活から脱却し、ようやく事業の真似事を始めた頃、最初に手掛けたたこ焼き屋のことを知り、グラスルーツコンサートでたこ焼きの出店を誘ってくれたのもピンクさんでした。主に彼やスタッフの方々の賄いに近く安定した需要があって、あの頃ほんとうに助かりました。
この頃、わたしはまだ30代半ばで、あらためてピンクさんたちの音楽活動に触れることで、2度目の青春時代を過ごすことになったのでした。

いまからPEACE MARKETのチラシを巻きに行きますので、ここまでを前半にして、今日の夜に後半の記事を書きます。

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