ある蔵書

先日、能勢町でただひとりの女性の町会議員Oさんから、能勢町を引き払ったある女性の蔵書をいっしょに引き取りにいけないかと連絡が入りました。
Oさんはご近所さんで、2年前の町会議員選挙で初当選しました。能勢の新学校建設と耐震化の問題では、かなわなかったものの新学校の建設見直しを訴える住民署名に対して共産党の議員とともに賛成を表明したひとで、何かと話のできる議員さんです。
最初の選挙となった2年前、わたしの住む地域から議員を出したいという声とともに、女性問題を長らくやってこられた経験を生かし、能勢でも男女共同参画施策を前にすすめようと町議会議員選挙に立候補し、当選されました。
町議会では新学校建設をすすめるグループに押し切られてしまいましたが、女性問題など特別なミッションを持った市民運動の代表としてだけではなく、高齢化と人口減少とそれにともなう財政の厳しさの中で、能勢町の町づくりの在り方を平凡ともいえるふつうの町民の目線から提案できる議員として、妻もわたしも信頼しています。とくに妻は、町内会のことなどでもとても親しい間柄です。

さて、ここからが不思議な縁なのですが、本を処分した女性とは私が箕面に住んでいた時の知り合いでした。
1990年代半ばぐらいとしか記憶がないのですが、男女共同参画条例を策定するために箕面市が男女共同参画懇話会を設置しました。当時豊能障害者労働センターのスタッフだったわたしは仕事の上で箕面市行政のひとたちと議論したり一緒にお祭りやシンポジウムなどの事業をすることも数多くありました。その関係で男女共同参画懇話会の委員に応募しないかと誘われたのでした。
わたしの母がシングルマザーだったことや、女性の問題とされている中でも介護の問題などで、障害者の人権にかかわることも多いのではないかと考え応募し、委員になりました。その懇話会の委員として、長くフェミニズムの運動を続けてきた彼女がいました。
懇話会ではある労働組合の委員長とわたしがよくぶつかり、「女性の権利と差別を声高に主張するのは日本の古き良き伝統を忘れている」と言う彼と言い合いをしたものでした。そして当時の市議会でその労働組合を代表する女性議員(このひとも以前は友人でした)が、「男女共同参画懇話会は一部の委員の誘導で偏っている」と質問し、わたしは失望するとともに、懇話会の委員になったことを後悔したものでした。本を処分した女性とは懇話会の議論では大体が同じ意見でしたが、女性運動の立場からの意見が他の女性の委員には理解できず、懇話会の女性委員たち自身が少なからず「古きよき伝統」のもとに抑圧されてきた現実を垣間見ることで、あらためて根深い女性差別を知り、そのことに男であるわたしが結局は加担していることにも気づきました。

わたしが能勢に引っ越してきたのは2011年の震災の年で、妻は能勢の里山暮らしに夢中になり、その関係でいろいろな人と出会い、そのかかわりから2013年の秋に「能勢の環境展」にごみの減量と有機農業の貴重な肥料にもなる竹の粉を出品しました。その時に彼女が現れ、「あれ、こんなところで」と両方で言いながら話をしたところ、彼女はずっと前から箕面とは別に能勢のわたしの住んでいる近所にも家があり、時々来ているとのことでした。そして、箕面での付き合いとは別に、能勢で何か一緒にやれたらいいなと思っていました。
つい最近、彼女と同居している人が着物の古着を役立ててもらいたいと妻を訪ねてこられ、彼女が病気で、能勢の家も箕面の家も引き払うことを知りました。
それほど親しかったわけではないのですが、とても寂しい気持ちになりました。能勢での出会いが遅かったことへの残念な気持ちとともに、体の具合がどの程度なのかとても心配です。
そんな事情の中で、Oさんから「ずいぶん長い間、女性運動をしてきたひとらしい」と聞いて、すぐに彼女だとわかりました。話によると、いまとりあえず友人のお店のひとに預かってもらっていて、Oさんも女性運動とかかわり深いことを知っていた彼女の同居人が処分にするのも何かに役立てるのも任せるからということでした。
わたしも妻も、フェミニズムの貴重な資料になる本や冊子があると思うので、いったんわたしの家で預かり、きれいにしつつ処分するものは処分しようということになりました。
奇遇にも本を預かっているお店というのが、関西でライブができる山里カフェとしても結構知られている「気遊」さんでした。Oさんが連絡し、妻とわたしと3人でお店に行くと、親切にも別の倉庫にある本をバラのものはダンボールに詰め直したり、出しやすいように手前のテーブルに出してくれました。Oさんの車につめこみ、3回往復して50箱にものぼる本をわたしの家に運びました。
妻は豊能障害者労働センターの古本専門の事業を始めたひとでもあり、「ひさしぶりに腕が鳴る」と張り切りながらも、カビが生えたりしている本もあり、処分すべきか悩んでます。先日みた映画「繕い裁つ人」での「一生ものの服」と同じように、本もまたひとの人生と伴走するもので、わたし自身高校を卒業してから10回も引っ越しているのですが、そのたびに本だけは捨てられずに来ました。そのため、偏ってはいるもののそれなりに私的図書館のようになっています。
どんな本に限らず、ほんとの出会いは様々ですが、女性の問題や障害者の問題や環境の問題などの本との出会いは、自分の暮らしの中にあふれている疑問や困難や理不尽なことにぶつかり、それらの個々の出来事が社会全体のシステムや歴史とどのようにつながっているのかと考えるところから自分の切迫した思いに応えてくれそうな本をさがし、その本を読むことで今度は日常の中で自分が見落としてしまっていたことに気づき、さらには「書を捨てて街に出よう」ではないですが実際の行動に移し、そこから生まれる様々な欲求がまたほんとの出会いを生みます。本は人生の袋小路の奥にある扉のようで、ある時パッと開くと彼方から真っ白な光が差し込み、知らなかった世界、知りたい世界へと誘う水先案内人なのだと思います。
長らく女性運動を続けてきたこの女性のたくさんの本たちもまた、彼女の哀しさや憤りやたたかいの足跡を証言していて、どんなに汚れている本にも捨ててしまうにはしのびないものがあります。また、ひとはさまざまなことに好奇心を持ち、政治哲学や社会問題から犬や手編みなど趣味の本まで、さまざまなジャンルの本があり、そのことからもひとりの人間の人生に寄り添うように本もまた生きてきたのだとつくづく思います。
しかしながら、だからこそこんなふうにすべての蔵書を処分する時、はたしてわたしのように多少彼女を知っている人間に任せるのが彼女の本意ではないかもしれないという危惧も感じないわけではないのです。彼女は箕面でいっしょに活動してきた仲間や友人がたくさんいるはずで、その人たちに託さないで能勢のちょっとした知り合いに頼んだという事実がそう語っているように思えてなりません。彼女は、わたしの家に自分の本が来ていることは知らないはずです。
表現が正しくないかも知れませんが、ひとりの人間の蔵書の中には親しい友人には見られたくない本も含まれていることが多く、いわば自分のもっとも恥ずかしいところ、秘密にしているところをさらけだすことになる場合もあります。だからこそ、切羽詰まって一気に処分してしまいたい時は売れそうな本は古本屋さんに、そうでない本はごみとして捨ててしまうことも多いのではないでしょうか。
彼女の場合は、知り合いの人に頼んだということから、自分がなれ親しんだ本が違うところで知らない誰かの道標になってほしいという思いも感じられます。事実ざっと見るだけでもとても貴重な資料として活かされるはずの本がたくさんあります。どこかで彼女に事のいきさつを伝えられることを願いながら、これらの本を大切に残せる方法を考えているところです。
また、ライブができる「気遊」さんのオーナーのIさんとも少しお話ができて、とても有意義な時を過ごすことができました。山荘風につくられたこのお店は独特の雰囲気を持っていて、実際のところ、観光客がくるわけでもない能勢で運営していくご苦労がどれほどのものかわたしなどにわかるはずはないものの、能勢の町にこんなお店があり、能勢と音楽を愛するひとたちが集う場所があることはわたしたち能勢町民の誇りであると思います。
いつかここで、小さなライブを企画したいと思っています。
7月11日にジャズピアニストで作曲家・編曲家で、浅川マキのピアノも担当していた渋谷毅さんと金子マリさんのライブをするそうです。

浅川マキ「かもめ」
「気遊」のマスターと1960年代から70年代のミュージシャンの話で盛り上がってしまい、Oさんには申し訳なかったと思っています。「気遊」さんの知り合いの池田のバー「朝日楼」の話もしていたところ、当然浅川マキの話になりました。
浅川マキ 朝日のあたる家(朝日楼)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です