森進一と島津亜矢「BS日本のうた」2

21日の夜、小島良喜と小林エミのライブに行きました。ライブの雰囲気については、島津亜矢のこのシリーズを書き終えてからまた報告したいと思いますが、小島さんとの話はどうしてもいま病院でたたかっている桑名正博さんの話になりました。
「家族以上の間柄だから」と言う小島さんは、「明日病院に行くのでいっしょに行こか」と言ってくれましたが、豊能障害者労働センターもわたしも、ほんとうに桑名さんのお世話になって気持ちはあふれるほどありますが、やはりそこまでは連れ合いさんやご家族の方々にご迷惑をかけてしまうので、「めっそうもありません」と言いました。
わたしたちとしては、こちらのひとりよがりかもしれないですけど、お取り込み中のところ、連れ合いさんにごあいさつして、心ばかりのお見舞いを届けられたことで充分で感謝していますと、もしおぼえていらしたらお伝えくださいと言って、ライブ会場をあとにしました。

さて、「BSにほんのうた」の森進一と島津亜矢のスペシャルステージは盛り場演歌で始まりました。森進一は「花と蝶」、「命かれても」、「ひとり酒場」の3曲を歌いました。いずれも1967年、68年の歌で、わたしの青春を色濃く染めた歌でした。高校を卒業したものの、大阪中之島の小さな建築設計事務所を半年でやめてしまい、ビルの清掃をしながら食いつないでいた頃、街は70年安保と大学紛争、ベトナム反戦など、政治の風が吹き荒れていました。デモとバリケードと独特のイントネーションで「われわれは…」という演説がいろいろな場所で繰り広げられ、騒然としていました。わたしはといえば、彼らの行動にある種の共感は持っていたものの、徒党を組んだり組織に入ったりするには社会性に乏しく、社会を息苦しく感じながらも何も行動を起こせず、鬱屈した感情をもて余していました。
そんなわたしの人生の応援歌が、ビートルズと森進一だったことはすでに書いたとおりです。思えば、相反するかあるいはまったく接点のないものをわたしの夢の中で組み合わせる癖は、すでにこのころからはじまっていました。高校時代からシュールレアリスムにあこがれ、「ミシンとこうもり傘が解剖台の上で出会う」(ロートレアモン「マルドロールの歌」)ことからもうひとつの革命が始まることを夢見ていたわたしの中では、ビートルズと森進一は矛盾なく出会っていたのでした。
その中でも「命かれても」は愛唱歌で、「ほれてふられた女のこころ あんたなんかにゃわかるまい」という歌詞に、わたしの決して明るくなかった青春の闇を投影させていました。この歌はわたしの人生のベスト3の一曲で、先日この歌について書いたところですが、わたしがなぜこの歌にのめりこんだのか、もう少し書いてみようと思います。
「あんたなんかにゃわかるまい」というせりふは、いまでも心に突き刺さります。この歌の中ではひとりの女が男への恨みの気持ちを投げつけながらも、それでも未練を断ち切れない悲しさにあふれていますが、その頃のわたしは「いつかはわかりあえる」という大人のうそにも、簡単に「われわれは…」と言ってしまう同年代の大学生のアジテーションにも納得できず、森進一の鬼気迫る歌唱力でつづられるこの歌の思想的ともいえる心情に心を重ねていたのでした。
その経験はその後のわたしの感じかたや生き方に強い影響を与えていて、今でも簡単に他人の悲しみや苦しみをわかると言ってしまうことに躊躇したり、反対に自分の心情を他人にわかってもらうことは簡単なことではないと思っています。ひとはだれかと「わかりあえた」と思ったときから他人の心を踏みにじっているのかもしれず、もしかするとファシズムはそこから生まれるのかもしれません。むしろ簡単にはわかりあえないからこそ、ひとは恋を知り、社会は民主主義を学んだのかもしれません。

森進一は演歌の大御所ともいわれるところにいながら、実は昔アダモの歌を歌ったようにシャンソンに近い歌唱力を持ち、さらに歌のかなたに潜む男と女、ひととひとが絡み合う物語を時には破壊的に時には繊細に、時には扇情的に時には悲劇的に語れる稀有の歌手で、こういう風に書いてくると、ほんとうに島津亜矢と森進一はスタイルも表現性もちがうけれどとてもよく似ていると思います。
そのことは当のふたりが一番よくわかっているようで、ぎこちない会話の端々にうち解けていくのがとてもわかりやすく伝わってきました。とくに森進一の言葉少ない会話やしぐさには、島津亜矢へのきめ細かな心配りが感じられました。もっと親しくなれば歌の交換やデュエットも夢ではないと思うのですが、いい意味で不器用な森進一は、いい歌にはいい歌でこたえようとする真摯さで、ひとつひとつの歌を格別丁寧に歌っていたように思いました。
この後、島津亜矢は「帰らんちゃよか」、森進一は「おふくろさん」を歌い、聴いてほしいこの一曲として島津亜矢は「一本刀土俵入り」、森進一は「影を慕いて」を熱唱します。
この頃にはふたりのステージは最高のパフォーマンスに達していました。島津亜矢は何度も何度もこの歌を歌ってきましたがせりふがすばらしく、やはり座長公演を経験したことでより豊かな演劇性を手に入れたのだと思います。とくに2番目のせりふでは彼女のすぐ目の前にお蔦さんがいるようでした。ひとり芝居に磨きがかかり、これからの名作歌謡劇場がとても楽しみです。

一方、島津亜矢への返歌として森進一が歌った「影を慕いて」は、今回のステージの中でも渾身の一曲でした。戦争へとつきすすむ暗い世相の中で、古賀政男が青春の苦悩と人生への絶望から魂の叫びをつづったこの曲は、戦前の昭和の歌謡史にかがやく大ヒット曲となりました。
昔、森進一が古賀政男の「人生の並木道」のレコーディングのとき、「泣くな妹よ、妹よ泣くな」と歌いだすと、森進一自身の生い立ちがよみがえり、譜面どおりに歌えなくなったそうです。その時、古賀政男は「森君、君の歌い方でいいんだ」といい、二人とも涙したと言われています。独学で作曲家になった古賀政男には、歌うことでしか自分の悲しみを表現できなかった森進一に、古賀メロディーの真髄を託したのだといっても過言ではないでしょう。
今回の「影を慕いて」を聴いていて、そのエピソードを思い出しました。わたしと同じ1947年生まれの65才で、19才のデビューから変わらない森進一の歌への姿勢は、島津亜矢が信条としているものとまったく同じで、今回のステージはたしかに地味でパフォーマンスにも乏しく、なんのサプライズもないものかも知れませんが、ふたりが尊敬しあい、歌うことだけで向き合い、語り合ったとても緊張感のあるすばらしいステージでした。
ここまでで、すでに予定の字数を越えてしまい、「一本釣り」や「女坂」、そして一緒に歌った「港町ブルース」のことは報告だけにします。
2000年の島津亜矢はほんとうにきれいですが、最近の島津亜矢はどんどんチャーミングになっていて、そのわけはいい意味でリラックスできるようになったからだと思います。とくに芝居を経験してからは自分をプロデュースするもうひとりの自分を意識するようになったのではないでしょうか。見られる自分から見せる自分へ、聴かれる歌から聴かせる歌へと、大衆芸能の女神として大化けしつづける島津亜矢にますます目が離せなくなり、できるだけライブに行きたいと、あらためて思いました。

森進一 影を慕いて

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です