島津亜矢と中村美津子「瞼の母」

先日、NHKの「BS日本のうた」の名演特集で2008年に島津亜矢と中村美津子が共演した「瞼の母」が放送されました。
NHKの「BS日本のうた」が「新BS日本のうた」としてリニューアルされるため、1998年から長きにわたって放送されてきたものの中から、この共演が取り上げられたことはきわめて異例のことではなかったかと思います。
この番組に出演してきた数多くの歌い手さんの映像がたくさん残されているものを差し置いて19分という長さのこの映像が選ばれたということに、島津亜矢ファンであるわたしは本当にうれしく思うのですが、それ以上にこのオリジナル映像そのものが異例のプロデュースと演出によって実現していて、当時のこの番組の制作チームに敬意を表したいと思います。さらに、その映像を今回の再放送で取り上げた今のチームに当時のスタッフがおられるのかどうかはわかりませんが、この番組をリニューアルするにあたり、音楽的な冒険やいい意味での野心を忘れない覚悟のようなものが感じられ、これからの放送がおおいに期待されるところです。
中村美津子は1991年から、島津亜矢は1992年からこの歌を歌っていますが、一般的には中村美津子の「瞼の母」の方がよく知られていたのかもしれません。島津亜矢の場合は知る人ぞ知るという感じで熱烈なファンに支えられて今も歌いつづけています。

江州番場の生まれで天涯孤独の渡世人・忠太郎は、5歳で生き別れた母親恋しさの一念から、その面影を捜し求め、彷徨う流転の月日を送っていた。その恋焦がれた母親が生きている……そんな風の便りに、会いたさ一念で江戸へと流れ着く。だが、探し当てた母・おはまは、今では江戸でも名のある料理屋「水熊」の女将に納まり、忠太郎にとっては異父妹にあたる娘・お登世をもうけていた。
そして、お登世の祝言も近いある日、遂におはまの目の前に現われる忠太郎。しかし母は、どうせ金目当てで名乗り出たヤクザな渡世人としか取り合わず、あくまでも息子は死んだと突き放す。必死にすがりつく忠太郎だったが、30年近く思い描いた母の面影を、無情にも母親本人に打ち砕かれ、怨みの捨て台詞を残し、よろめくように去って行く。
そして、母への思いを断ち切るように、白刃を光らせ、股旅の路へと身を躍らせる忠太郎。
その耳に忠太郎の名を叫ぶ必死の声が届く…。

1930年に長谷川伸が戯曲をつくり、戦前戦後と芝居や映画、浪曲で語られてきたこの物語の最高の見せ場、泣かせどころを歌うこの歌は数多くの歌い手さんが歌っていますが、ほとんどの歌い手さんがこの歌の語り手として歌っているのにくらべ、島津亜矢の「瞼の母」は忠太郎本人のモノローグとして歌っているのが際立った特徴だとわたしは思っています。  この歌に限らず、島津亜矢が歌うとその歌の登場人物が現れ、聴く者の心にその心情がストレートに届くのですが、とくに「男歌」の中でも股旅ものや任侠物を歌うと、どうしても逃れられない宿命に翻弄され、破滅への道を突き進む登場人物の悲しみを見事に表現していて、聴く者も思わず涙がこぼれてしまうのです。
一方、中村美津子もまたセリフ入りの演歌や歌謡浪曲における表現力は誰しもが認めるところで、浪曲師春野百合子(二代目)の元で修行した歌謡浪曲「瞼の母」は19分にわたって、語り、忠太郎、母、娘、そして歌の一人5役をこなし、語りの歌としてこの歌を完成させていました。
ほぼ同じ年月をかけて「瞼の母」を歌い続けてきた二人が共演したこの番組をごらんになった方はかなりの衝撃と感動を覚えたにちがいありません。それはちょうどジャンルは違いますが、今年の2月初めに「I Will Always Love You」を島津亜矢が歌い、松山千春をはじめ多くのミュージシャンにショックを与え、たくさんのひとびとが感動したのとよく似ていたのではないでしょうか。
母を思い続け、ひと目会いたいと願い続けて生きて来た忠太郎と、捨ててきた我が子とわかりつつ、世間を気にして「やくざもの」になった息子を追い返そうとする母親おはま…。日本の道路がまだアスファルトに覆われていなかった時代に生きたひとびとの心情に裏付けられた親子の愛や義理や人情がつづられ、涙なくしてはおられません。
「やくざもの」というアウトローになることでしか生きられなかった忠太郎の切ない青春と、心の中では息子を抱きしめたいと思いながらも世間体を気にするおはまの母親像には高度経済成長以前の日本の社会が持っていた古い因習や家父長制や格差社会が浮き彫りにされています。
戦後民主主義と高度経済成長の二人三脚で戦後の日本社会は新しい服をまとい、暗くて陰湿な長屋の「家」はアルミサッシの窓がある奇妙に明るい戸建からマンションへ、家父長制の家族はニューファミリーから個族へと、爆走する時代にすがりつくように古い因習を脱ぎ捨ててここまでやってきました。
しかしながら捨てたはずの戦前社会の戒律は、実は戦後のわたしたちの心の果てに残っていて、今から思うと二度と戦争はいやだという思いだけは強くあったものの、突然やってきた戦後民主主義に当時の支配層から一庶民にいたるまですぐになじめなかったのはあたりまえのことだったのでしょう。
1960年代後半から1970年代はじめまで、日本の社会が激動の渦に包まれていた頃、なぜかしら戦前にもまして長谷川伸の人情ものが新国劇のあたり狂言となり、東映の任侠映画が大ヒットしたのは、ある意味戦後民主主義と高度経済成長に乗り遅れまいとする世間の風潮にあらがい、道路がまだ黑かった時の夕暮れの長屋で、イワシの煙に包まれて住んでいたそれぞれ事情のある家族が醤油びんの貸し借りとともに身を寄せ合って生きていた、「路地裏の民主主義」への郷愁と希求が当時の人々の心に色濃く残っていたからなのだと思います。
そして今、股旅ものの映画やドラマや歌がつくられることがなくなってきたのは、いわゆる暴対法などの影響による自主規制のせいだけではなく、醤油を貸し借りしていた「路地裏の民主主義」ははるか遠くに去り、助け合うことができない、あるいは助け合うことを必要としない社会、孤独な心を自分で抱きしめるしかない社会にわたしたちが生きているからではないのでしょうか。
そんなことを思うと、いつかまた、長谷川伸の芝居とともに「路地裏の民主主義」としての人情ものの復権がなされる時が来るまで、アナクロと思われても前近代と思われても中村美津子と島津亜矢に「瞼の母」を歌いつづけてほしいと思います。

ちなみに、島津亜矢はその後座長公演で本格的な芝居をはじめるようになり、モノローグからダイアローグへと表現の幅を広げることで、本職の歌そのものが大きく変わりました。この放送での熱唱は歌い上げるハードなものでしたが、今は「歌をよみ」、聴く者の心に「歌を置き残す」歌唱力を身に着けたことで、モノローグでも語りでもない心境地を日々開拓していて、その進化に立会えるスリリングな体験ができる幸運を率直にうれしく思っています。

【瞼の母】島津亜矢/中村美律子」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です