島津亜矢「東京だョおっ母さん」

8月8日、NHKの「想い出のメロディー」に島津亜矢が出演し、「東京だョおっ母さん」を歌いました。「想い出のメロディー」という番組の性格上、「想い出」の方が勝ちすぎてその歌を今歌う歌手については印象がなくなってしまいがちでしたが、島津亜矢の場合、番組の構成から逸脱したような、少し凄みのある歌に聴こえたのは、ファンであるわたしだけではなかったと思います。
この歌は島倉千代子の1957年の大ヒット曲で、当時わたしは10歳で家にはまだテレビがなく、280円の中古ラジオから聴こえてきたたくさんの歌の中でもとくに印象深い歌でした。
実は事前に彼女がこの歌を歌うと聞いて、わたしは大きな期待とともに一抹の不安も感じていました。というのもこの歌は、島倉千代子の初期の歌がそうであるように演劇的であるだけでなく、一部でNHKが紅白歌合戦で歌わせなかったと言われた歌だからです。
それは2番の歌詞の靖国神社に祭られた兄のお参りに行くという内容が、自主規制の対象になったと多くの方が指摘しています。
戦後のGHQ体制のもとで、戦後民主主義は「自由と権利と平等」の3点セットをプレゼントしてくれた一方、軍事力の放棄や官僚、財閥の解体、農地の解放などにより天皇を頂点とするピラミッド型の旧社会体制・国体を解体し、二度と大陸への拡張主義が復活しない国民主権の社会をめざして出発しました。9条の戦争放棄や13条の基本的人権など、日本国憲法の制定にアメリカがかかわったことは事実で、自主憲法の制定をめざす人々が憲法を改正するべきとする言い分になっていることもまた事実でしょう。
旧体制の封じ込みは政治・社会のシステムのみならず、芸術文化から大衆芸能にまで及んだといいます。「東京だョおっ母さん」がたどった運命も、そのことと無縁ではないのかも知れません。靖国問題を背後に持つ複雑な事情をものともせず、通算150万枚を売り上げる大ヒットとなり、島倉千代子の代表曲の一つに数えられるこの歌には、ひとびとの深く悲しい心情が隠れていて、彼女はそのひとつひとつの悲しみを決して声高にではなくとつとつとひょうひょうと歌いながらも、鬼気迫るはげしい感情をかくしていたのだと思います。
田舎からお母さんが東京に出てくる。東京にいる娘が、その母親を案内して二重橋、九段坂、浅草と東京名所を案内する。
今も浅草は東京の名所のひとつでいつもにぎわっていますが、二重橋、九段坂、そして靖国神社を当時の日本人ほどの思い入れを持って足を運ぶ人は少なくなってきているかも知れません。
そういえばわたしもこの歌はよく歌っていたものの、2番の歌詞はほとんど記憶にないほど聴く機会が少なかったことを思い返すと、この歌の場合はいわゆる「右寄り」の人たちが指摘しているような事情が働いていたのかも知れないと思うようになりました。

やさしかった兄さんが 田舎の話を聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ おっ母さん
あれが、あれが、九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんも

2番の歌詞を知って、二重橋、靖国神社をめぐる東京見物とは母が戦死した息子の霊を慰める慰霊の旅であることをはじめて知りました。
戦後12年を経た1957年、社会は重かった翼を広げ、高度経済成長へと舞い上がったところぐらいでしょうか、中学生の集団就職が1960年のピークに向かって速度を増し、50万人の若者が東京になだれ込んできた時代は、それでもまだ多くの日本人の心の隅には戦争の傷跡が残っていたことを子ども心に感じていました。
社会のシステムは戦後民主主義に模様替えしていても、大切な家族や恋人、友人を亡くした人々の心はそう簡単には明るく切り替えられるはずもなく、戦争が終わって日が経つほど理不尽にも断ち切れてしまったいのちへの鎮魂の思いが増幅されたのではないでしょうか。
「死んだら靖国で会おう」と散って行った幾多のたましいを英霊として祭ることで、さらに国のために死ぬいのちを増殖させてきた明治以後の国家体制が「負けるはずがなかった」先の戦争の敗戦によってこわれた時、国家によって語られることも悼まれることのない幾多のたましいが漂流するのをかろうじてとどませたものは家族しかなかったのも真実だと思います。骨も手元に届かない息子のたましいがそこにあると信じて靖国神社にお参りすることは、靖国問題とは遠くはなれたとても悲しくとても理不尽なアイデンティティをまさぐることであったことでしょう。
わたしは靖国神社にA級戦犯が合祀されていることにではなく、戦死したおびただしい数の市井のたましいを英霊と呼び、彼らの犠牲の上に今の幸せがあるという虚言のもと、国家が自分の都合で国民の命を自由に使い捨てにしたことへの反省も後悔もするどころか、国のためにいのちまでも捧げる犠牲を国民にせまることを正当化するという意味で、靖国神社の存在とそれをささえる政治的社会的な存在を認めるわけにはいきません。
しかしながら、そんなわたしでさえ、この歌の2番を聞くと思わず涙が出てしまうのです。わたしですらそうなんですから、「東京だョおっかさん」を島倉千代子が歌うと、必ずこの2番のところで涙をぬぐいすすり泣き、時には号泣する母親がたくさんいたはずです。
新しい戦後民主主義がどんなに明るい幸福幻想を振りかけてみても、ひとの心の中にある傷つき、消えてしまったたましいを悼む心情は暗くよどみ、戦後70年になる今でも蠢いていることでしょうし、ましてや1957年という時代にはその心情のよりどころを多くのひとびとが靖国神社に求めたとしても、母親たちの悼む心が間違いであるはずはないでしょう。そしてわたしたちは、傷つき死んでいった多くのたましいは同時にそのひとの思想信条にかかわらず、「国のために」武器を持ち、おびただしい数のたましいを奪い、消し去ったこともまた、深く心にとどめなければならないのでしょう。

さて、島津亜矢に話を戻しますと、島倉千代子亡きあと、難しく危険でもあるこの歌を島津亜矢に歌わせたこの番組の制作者たちの慧眼に拍手を送りたいと思います。島津亜矢は難曲に出会うたびに新しい歌唱法を獲得する不思議な歌手ですが、今回の歌唱も今までとはちがう新しい領域にまた一歩踏み出した感があります。
島倉千代子のオリジナルが美空ひばりとはまたちがう意味で歌唱力が高く個性も強いので、とても歌いづらい歌だと思います。
しかしながら島津亜矢はこの歌で、最近の演劇的でダイアローグな歌唱法を完璧なものにしたとわたしは思います。歌手であることよりも女優であるがごとく、モノローグに物語るのでもなく歌い上げるのでもない、スポットライトが当たる場所ではない所でだれかにとても大切なもの、心の揺らめきをそっと伝えるような、そんな歌唱法です。
本来ならもっとこの歌のオリジナルのように強烈なカタストロフをひねり出すかもしれない所を、とても淡々と歌いながら、「おっかさん」というところに独特の粘りと微妙に旋律を遅らせるような「ため」で、この歌のもとにある「悼む心」が伝わってくるのです。
もし2番を歌っていたら、全盛期の島倉千代子に劣らずその演劇性にあふれた歌声で数多くの人がテレビの前で泣いていたかも知れません。2番を歌わなくても、また先に書いたような事情をまったく知らなくても、この歌がなくなった命への挽歌であることがわかるのですから…。
ともあれ「東京だョおっ母さん」は、家族がニューファミリーへと衣替えする前の、地面がまだアスフルトに覆われる前の、戦争の傷跡がまだ数多く残り、焼けた建物と鉄条網に薄暗い煙が立ち込めていたわたしの少年時代に、中古のラジオのはるか遠くの荒野をわたり、荒れる日本海や膨大に太平洋をわたって届けられた、「悼む心」の歌だったのだと、はずかしくも島津亜矢がこの歌を歌ってくれるまで知りませんでした。

島津亜矢「東京だョおっ母さん」

島倉千代子「東京だョおっ母さん」

三上寛「東京だよおっかさん」
実はわたしにとって「東京だよおっ母さん」といえば、三上寛でした。三上寛はわたしのもうひとつの青春でした。このひとの「演歌調」は演歌の本流とは似ても似つかわないものでしたが、子どものころに親しんだ歌謡曲調でロックを歌う彼の追っかけをしていました。その中の名曲のひとつがこの歌でした。本物の「東京だよおっ母さん」とはまったく違う曲調であるだけでなく、その背景の思想もまったく別のものですが、青森県生まれの三上寛が東京に出てくるときに口ずさんだ歌であることはまちがいないと思います。
わたしもまた、「三文判をにぎりしめ、ならんでもらった給料袋」と歌う彼の歌に心を共振させていました。
そこからわたしは子どもの頃によく聞いた島倉千代子の「東京だョおっ母さん」をまた口ずさむようになりました。
今回は反対に島津亜矢の歌を聴いて、青春の墓碑銘といえる三上寛のこの歌を聞き直しました。

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