寺山修司の小説「あゝ、荒野」とその時代 NO.1

映画「あゝ、荒野」を見ました。
この映画の原作は1966年に出版された寺山修司の小説「あゝ、荒野」です。
1960年代はベトナム戦争、アメリカ公民権運動、中国文化大革命、チェコのプラハの春とソビエト侵攻など世界の激動と重なるように、社会党の浅沼委員長暗殺や三里塚闘争、70年安保闘争、学生運動など日本社会もまた激動の10年でした。
わたしはリアルにその時代を生きたのですが、同世代の若者たちがデモに明け暮れ、政治的な活動に情熱を燃やしている姿にあこがれとともに違和感を感じながら、眠れない夜を過ごす毎日でした。
学生運動に没入していた大学生の友人たちと徹夜で議論することもしばしばありました。みんな妙に元気で純情で情熱的でしたが、彼女彼らの口癖だった「帝国主義打倒」、「人民解放」、「革命勝利」といった言葉はよどんだ夜の空気にゆらゆらするだけで、わたしの心には届きませんでした。
わたしもまた社会の理不尽さに異議申し立てする機会と場を切実に求めていたのですが、デモとアジ演説とゲバ棒と石礫と火炎瓶で国家権力とたたかう勇気も覇気もありませんでした。彼女彼らが熱く語る「革命」が勝利に終わったとしても、勝利した「人民」にわたしが入っていないだけでなく、その「人民」たちに排除されるべき人間とされる確信がありました。
社会性のかけらもなく、隠れ家を探し続けるどもりで対人恐怖症のわたしは、いままでもこれからもこの町もよその町でも、いいことなどなにひとつない青春のただ中にいました。学生でもなく労働者でもなく人民でもなく、市民にもなれそうにないこのわたしはいったい何者なのか、何者になれるのか…。

そんな悶々とした日々を送っていたわたしに生きる勇気を与えてくれたのが寺山修司でした。俳句、短歌、詩、エッセイやテレビ・ラジオを通して、当時は寺山教といわれるほどのカリスマ性で若者の心をわしづかみにしていた彼は、世の大人たちから危険人物と思われていました。事実、彼の著作「家出のススメ」を読んで東京に家出してくる若者が相次ぎ、彼女彼らの暮らしを成り立たせるために劇団「天井桟敷」をつくったところなど、どこか障害者の雇用のためにだけ事業をする豊能障害者労働センターと相通じるところがありました。
どもるコンプレックスに押しつぶされていたわたしに、寺山修司だけが「どもってもいい」と言ってくれました。それどころか、畠山みどりの「出世街道」の「やるぞみておれ、口には出さず」を例にあげ、「口には出せず」から「口には出さず」と言い直したとき、そこには「どもることは言葉や思想をより深く理解し、政治を通さない人間の革命をめざす「どもりの思想」があると言いました。わたしは彼の唱える「吃音宣言」に励まされたのでした。
この言説だけでなく、寺山修司は世の中の常識や道徳や秩序を守るルールや、それらを押し付ける権力を否定する一方、障害や貧困などマイナスと言われるものや社会的マイノリティこそが時代を変革できるとしました。それを思想化し、組織化することで政治革命とはちがう回路から人間の革命をめざしたいと、生涯にわたって演劇集団「天井桟敷」の活動にいのちを削りました。
小説「あゝ、荒野」はさまざまなジャンルで多作した彼のたったひとつの小説で、当時誰が言ったのか忘れましたが「偉大な失敗作」ともいわれました。当時流行ったヌーヴォー・ロマンのアラン・ロブ=グリエやル・クレジオなどの影響もあったのか、1960年代の若者の街・新宿を舞台にして、怒りと憎しみと暴力が炸裂する過酷な時代を生きる二人の若者がボクシングを通じて孤独な青春を共にし、心を通わせつつも体をぶつけあうという大まかなストーリーをたどりながら、寺山本人があとがきに書いているようにモダンジャズのアドリブの手法で、いわば行き当たりばったりに登場人物の生きざまを追いかけるように書きなぐったのだと思います。 それはまた、シュールレアリスムの芸術家マックス・エルンストのコラージュにも似た手法でした。
寺山修司はあとがきでこうも書いています。
「わたしはこれを書きながら『ふだん私たちの使っている、手あかにまみれた言葉を用いて形而上的な世界を作り出すことは不可能だろうか』ということを思いつづけていた。歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズ。そうしたものをコラージュし、きわめて日常的な出来事を積み重ねたことへのデペイズマンから、垣間見ることのできた『もうひとつの世界』、そこにこそ、同時代人のコミュニケーションの手がかりになる共通地帯への回路が隠されているように思えたからである。」

「手あかにまみれた言葉で形而上的な世界を作り出す」ことは寺山修司のすべての表現に貫かれたもので、いわば庶民の芸術、肉声で語られる路地裏の芸術ともいうべきものでした。それは国家に対して従順に生きることも反逆して生きることもできない若者、当時はまだ地方からの集団就職をはじめ、中卒で就職する若者も数多く、そんな若者にとって少なからずビートルズに代表されるロックや巷に流れる歌謡曲、アングラと言われた演劇や映画といったサブカルチュアがより政治的に思えたたくさんの若者たちに「公園の公衆便所の落書きや電話帳の無機的な数字の並びもまた政治的である」と教えてくれたのでした。
わたしは小説「あゝ、荒野」をリアルタイムで読んでいたのですが、あらためてもう一度読み直すと、よくも悪くもわたしの感じ方や考え方から行動や趣向まで、寺山修司の影響を強く受けていたことをあらためて思いました。
直接ではないですが彼と出会っていなかったらまったくちがった人生になっていたでしょうし、ずっと後に障害者の友と出会うことも、豊能障害者労働センターで活動することもなかったでしょう。わたしは自分から死を選ぶことはなかったのですが、もしかするとそちらの方に心が引っ張られたかもしれません。
実際、わたしにとって豊能障害者労働センターと出会うことで、はじめて働く意味を知り、生きがいを仕事で発揮することができました。
国家や社会や会社が決めるスタンダードルールを押しつけるのではなく、その集団を構成するすべてのひとそれぞれに夢があり、それぞれの違った個性をそのまま受け入れ、競争することよりも助け合える労働センターだったからこそ、対人恐怖症で社会になじめなかったわたしでも働くことができました。
そして、労働センターと出会うずっと前の青春時代に、普通とされる社会から離脱し、自分らしく自由に生きる道もあることを寺山修司は教えてくれたのでした。
寺山修司が言った「政治を通さない革命」は幻想かもしれないですが、政治が日常の暮らしからあふれる肉声をなくし、国会の中や選挙運動のパワーゲームでわたしたちの未来だけでなく、孫やその先の世代の未来までも奪うことになるかもしれない危機を迎えた今だからこそ、歌謡曲や演劇や映画などサブカルチャーが社会を変革できるとする彼の提案は、豊能障害者労働センターのような社会的事業体の活動もふくめ、わたしたちにとって切実なものになっていくのかもしれません。
もっとも、寺山修司は民主主義も平和も人権も福祉も信じていませんでした。その頃も今も、それらは国家が国民をだまし、囲い込むための罠でしかないとし、何よりもその囲い込みからの解放こそが自由への第一歩と考えていたのだろうと思います。
ですからいわゆる左翼からも右翼からも危険な人物とみなされていました。
次回は小説「あゝ、荒野」が書かれた1960年代の社会情勢と、2021年という、東京オリンピックの翌年に時代設定された今回の映画「あゝ、荒野」が予想する社会情勢を比較し、わたしたちの未来に希望があるのかないのかを考えたいと思います。

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