英国王のスピーチ

昨日友人のSさんから誘いがあり、映画「国王のスピーチ」を観ました。
彼は箕面のケーキ屋さんで、もう30年の付き合いになります。
1982年、豊能障害者労働センターは脳性まひといわれる障害者3人と健全者3人で、静かな出発をしました。最初の事務所は阪急箕面線桜井駅近くの路地裏の古い民家でした。車イスから長く細い路地を抱えられてしか事務所に入れないばかりか、冬はビールやジュースを冷蔵庫に入れなくては凍ってしまう寒さでした。
翌年の秋、事務所を改造してたこ焼きやをはじめました。表通りからは路地裏のお店は見えず、お客さんは数少ない豊能障害者労働センターの応援者だけでしたが、その中ではじめて知らない人がたこ焼きを買いに来てくれました。
そのひとがSさんでした。あれから30年たってもずっと見守ってくれている人たちの存在は豊能障害者労働センターの宝であり、元気の素なのです。

アカデミー賞作品賞など4部門で受賞した「国王のスピーチ」は実話に基づいた映画で、子供の頃から吃音のために無口で内気なジョージ6世が、型破りなセラピストとの友情と妻の深い愛情に支えられ、ナチズムに対する戦いを宣言する歴史的なラジオ演説を行うまでを描いた作品です。
歴史的史実と異なるという意見もありますし、どちらかといえば動きも少ない地味な題材ですが、念入りに組み立てられた演出と主演のコリン・ファースをはじめ素晴らしい演技陣によって語られる物語はとても感動的で、すばらしい映画だと思いました。
わたしはメジャーな映画にはほとんど興味がなく、マイナーな映画ばかりを観に行きます。彼に誘われなかったらこの映画
を観に行くことはなかったはずです。それなのに映画がはじまったとたんに映画の中に入り込み、親近感を持ったのは、わたしもまた吃りだからです。

子どもの頃、吃ることでずいぶん傷つきました。ひどい話ですが正直に言うと、もっとわかりやすい障害を持っている人をうらやましく思ったこともありました。障害と見てくれる前に、吃りはいつも笑われてしまうのです。
吃りを治すための呼吸を練習したり、歌を歌ったり、言いにくい発音の前に言いやすい言葉をのせたりと、この映画に出てくる吃りにかかわるいろいろなことは私自身の経験と重なっていました。
吃る原因も自分では結局わからずじまいでした。強いてこじつければ、わたしは非嫡出子、いわゆる「私生児」であることや、兄は結核性脊椎カリエスで2年もほぼ寝たままだったこと、さらに日本中が貧乏だった時代に輪をかけた赤貧だったことなど不幸が団体でやってきていて、子ども心に将来の不安や恐れに包まれていたことが原因なのかも知れません。

ともあれ、わたしの吃りは一度中学で治ったような時期もありましたが、中学3年の時、「ただよう」という言葉が言えなくて、それを先生に真似されたのがきっかけでまたぶり返してしまいました。
それまで貧乏でも普通高校から大学をめざしていたのですが、情けない話ですが特に女の子に笑われるのがいやで、男ばかりだという理由だけで、なんの興味もない工業高校の建築科に進路をかえてしまいました。

暗黒の高校時代をなんとか3年間すごしました。どの科目の授業でも、本を読むのをあてられるのが怖くて、授業をさぼったりもしました。つい最近まで、よく本を読めなくてみんなに笑われる夢をよく見たものでした。
高校卒業後、小さな設計事務所に就職しましたが、もとより興味がなかったため半年でやめました。そしてとにかくしゃべらなくてすむ仕事をさがしビルの清掃などを経て、豊能障害者労働センターに入るまでの20年を工場で働きました。工場で働き出して何年間かたつと、どうしてもしゃべらなくてはならなくなり、心理療法に通ったりもしました。

他人から見るとこっけいなわたしの努力は、結局のところ吃りをなおすことはできませんでしたが、吃りとどうしたらうまくつきあえるかを教えてくれたように思います。
わたしが寺山修司が好きになったほんとうのきっかけは、その頃物議を呼んだ名著「家出のすすめ」の中で、「言葉もまた肉体の一部である。完全な肉体が人間として失格であるように……、ドモリながら次の言葉を選ぶときの、言葉への新鮮な働きかけがないならば生きる歓びもまたないでしょう。」と書いたり、畠山みどりが歌った星野哲郎作詞「出世街道」の「やるぞみておれ口には出さず」が、吃りの人間が「口には出せず」から「口には出さず」と言うことで自己変革をするのだと書いたりしてくれたからでした。
その頃たくさんの若者がそうであったように、わたしは彼のはげましを得て、吃ることもまたとても豊かなことであると学んだのでした。そして、もし吃らなかったらどんなにすばらしい人生を送れたのかと思うと同時に、吃らなかったら決してつかめなかったすばらしい人生を送れたのだと思えるようになりました。
豊能障害者労働センターの仲間に入れて、そのことはより強く実感するようになりました。

映画は、吃りだからこそ心に迫る説得力のある演説をする達成感につつまれて終わります。実際、あの田中角栄の演説がすばらしかったのは、彼が子どもの頃吃りだったからというのは事実ですし、言葉をつぐむ天才のなかに少なからず吃音のひとがいることもよく知られています。
それはその通りとして、もし国王であってもそうでなかっても、この時に失敗してもそれもまたうれしい出来事なのではないかとわたしは思います。

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