唐池まつりと梶敏之さん、尚子さんのこと

8月27日、8年ぶりに「唐池まつり」に行きました。新大阪の「ゆめ風基金」の事務所を少し早く出て、箕面に向かいました。新大阪では午後2時ぐらいからでしょうか、突然の大雨と雷で、お祭りは大丈夫かなと思い豊能障害者労働センターに電話をすると、「空は暗くなってきて雷がなっています。でもお祭りはとりあえず決行です」という返事でした。ラジオでは大阪市から南の方がひどいらしく、なんとかなりそうだと祭りの会場の「唐池公園」についたのが5時半ぐらいでした。お祭りはすでにはじまっていて、雨がぽつぽつ降ってきて、「わたしが雨を連れてきたみたい」と言いながら、早速ビールを買い、きゅうりやとうもろこし、焼きそばと、久しぶりに縁日の楽しさを味わいました。
久しぶり来て見ると、たしかに一時のように公園全部を使うような大きな祭と違っていて、関係者から「もうやめたほうがいいかも」とか、「30回でやめよう」とか話し合われているようです。
けれども、わたしはこのお祭をはじめた頃のなんともいえない雰囲気を思い出し、いとおしさとなつかしさに包まれました。
1984年、わたしたちは特別の思いでこのお祭を準備しました。このお祭の直前に、豊能障害者労働センターの梶敏之さんのお母さん、梶尚子さんが亡くなられたからです。

1981年、ひとりの脳性まひの少年とその母親が、箕面市役所のぶあついガラスのドアを見つめていました。梶敏之さんとその母親、尚子さんでした。
敏之さんは箕面市内の中学3年、来年卒業をひかえていました。
尚子さんは、障害のある子どもの母親とくぐりぬけてきたいくつもの切ない夜の中でたったひとつのことを確信していたのでした。敏之さんが生きていくのは、この街の中にしかないと。
障害者とその母親、家族たちに向けられる世間の目は、憐れみと差別に満ちていました。明日のない袋小路に追い込まれ、時には自分の死とひきかえに子どもの生死をきめてしまう事件があとを絶ちませんでした。尚子さんもまた子どもを背中に背負い、医者通いをくりかえし、かすかな希望の糸をたぐっては切れたぐっては切れ、子どもの将来に悲観したこともあったことでしょう。
だがそれを打ち消してくれたのもまた、敏之さん自身の親ゆずりの明るさでした。
この子の将来は、この街に解き放つことで見えてくる。尚子さんはそう確信し、行動したのでした。
それはまず、地域の保育所入所をへて地域校区の小学校への入学でした。彼女は市役所にかけあい、教育委員会につめよってそれを実現しました。
箕面ではまだめずらしかった障害児の地域校区の小学校への入学は、あとにつづく障害児とその親たちをどんなに勇気づけたことでしょう。
それから9年、地域校区の中学校卒業をむかえて敏之さんの進路を見つめる尚子さんの目には、この街で生きる敏之さんの姿しか映りませんでした。
普通高校への就学運動も考えないわけではなかったでしょう。しかしながら、高校の門が障害者に対して固く閉じられていた現実以上に、尚子さんが待てない理由を、わたしたちはあとになって涙の中で知ることになったのでした。彼女は心臓病と言う爆弾をかかえていたのでした。
「この子を市役所でやとってくれへんやろか」。他人に言われるまでもなく無理なことだと思いました。けれども、この街で生きていくわが子の姿を思えば思うほど、彼女にとってそんなに無理な願いとはどうしても思えなかったのでした。市民の福祉をつかさどる市役所に障害者がいてもいいじゃないか。いや、いなければならないのではないか。障害者でなければ担えない行政の仕事があるはずだ。
彼女の確信は、現実がそれをこばもうとすればするほど、たしかなものとなっていきました。そんな時、二人は障害のある人もない人も共に生きる街づくりをすすめようと活動を始めた国際障害者年箕面市民会議のひとたちと出会ったのでした。
梶敏之さんのことを話し合った市民会議は市役所への就労運動をくりひろげました。そして箕面市に対して障害者別枠採用による障害者雇用の道を開くことを申し入れ、交渉をつづけました。
翌年の春、敏之さんの市役所への就職は実現しませんでした。しかしながら尚子さんはそのことの残念さよりもっと大きなものを手に入れたことに満足していました。
ひとつは、この運動の中でひとりの障害者を市役所に送りこめたし、なによりもその中でたしかなものとなった市民会議のひとたちとの人間関係を敏之さんに手わたせたことでした。
敏之さんの進路が新たに模索される中で、敏之さんは設立準備中の豊能障害者労働センターをのぞきにきました。日も当たらず、こわれかけの壁とほとんど役目をはたさないひき戸。もうそろそろ春というのに、外から中に入ると厚めのジャンパーをはおらないと寒くておられない。そんな労働センターの事務所を、敏之さんはたいそう気に入りました。
「ぼく、ここで働く」。敏之さんは、地域でずっと生きてきた自分自身の確信として、出会ったばかりのわたしたちを生涯の友と認めてくれたのだと思います。
敏之さんの希望を聞いた尚子さんは、まだ形もできていない、というよりは、これからも形になるかどうかもわからない豊能障害者労働センターに、子どもの将来をたくすことを決めたのでした。
こうして1982年の春、豊能障害者労働センターは養護学校を卒業した小泉祥一さんと、地域の学校で共に学ぶ運動の先頭にいた梶敏之さんを迎え入れ、活動をはじめたのでした。

1984年の夏、梶尚子さんは心臓発作で突然この世を去りました。くしくも市民会議主催の「第一回子ども縁日まつり」(通称唐池まつり)が唐池公園で行われる前日の朝のことでした。
つづく

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