映画「アデル、ブルーは熱い色」2

あしたのジョーなんかきらいだ
太って結婚してしまった西の方が俺は好きだ
(三上寛「明日のジョーなんかきらいだ」)

数年後、教師になったアデルはエマと一緒に暮らしていました。エマはアデルをモデルに絵を描き、アデルは幸せをかみしめていました。
そしてエマの友人たちを招待し、エマの作品披露パーティを開くことになります。アデルは一人でたくさん料理を作って準備します。そして、父親から教わったボロネーゼスパゲッティを大きな鍋にいっぱいつくります。パーティの当日、友人たちの会話は芸術の話で、アデルは疎外感から逃れるようにパスタを振る舞います。エマはアデルを自分のミューズと紹介し、みんなはアデルやボロネーゼスパゲッティを褒めてくれますが、アデルの孤独感は深まるばかりです。助けを求めるようにエマに視線を移しますがエマはまったくアデルには関心がなく、もっぱら自分の絵を売り込むことと、久しぶりという妊婦の友人ととても親密にしていて、アデルはひそやかに嫉妬を感じます。
このパーティの夜を境に、二人の間に生まれた小さな溝はどんどん大きくなっていきます。そんなある日、エマが家を離れている間にアデルは職場の同僚の男と関係をもってしまいます。エマは「売春婦! すぐに出て行ってくれ」とアデルをなじり、二人の関係はあっけなく終わってしまうのでした。
この時のエマのはげしい罵倒は観ているわたしにも強烈でした。エマ自身はすでに芸術的な冒険を共にする別のパートナーと精神的には結ばれている感じで、アデルへの知的な(芸術的な)関心ばかりか、人間的な興味すらも感じてなくて、ただ肉体的なつながりだけになりつつあったように思えるのです。そのことのさみしさからアデルは男と寝てしまうのですが、エマが許せなかったのはまさしく「男と寝たこと」にあり、同性愛者のエマには信じられない裏切りだったのでした。ただひたすら謝り、エマに許しを請うアデルはほんとうにかわいそうで、なんとかエマにすがりつこうとしますが、エマは徹底的にアデルを断罪し、残酷にもアデルを追い出すのでした。
そこにはもうアデルへの愛情はなく、汚いものを見るようにアデルを見る冷徹なインテリ臭い芸術家かぶりのエマがいます。そういえばこの愛には、芸術家を志向するエマに対して、自分は何者なのかと実人生で問うアデルという、相容れない二人の生き方が内包されていて、いつかは別れがやってくることを観客であるわたしたちは予感していたのでした。
この映画を観ながら、わたしは自分の青い時の残酷さを思い出していました。その頃のことを何度もこのブログで書いてきましたが、高校を卒業後就職した建築設計事務所を無責任にも当日にやめてしまったわたしは、ビルの清掃員として働きながら、今でいうシェアハウスでしょうか、友人との3人の共同生活をしていました。
同じ高校の同級生だったわたしたちは、女の子3人とグループ交際のまねごとをしていたのですが、いつかは6人で暮らそうと計画していました。
その頃のわたしたちのよりどころは「芸術」でした。わたしたち3人は高校の美術部に入っていて、女の子3人のグループも別の学校の美術部員だったことから交際が始まったのでした。
どもりで対人恐怖症だったわたしは、一人で生きていくことが怖くて彼女たち彼たちに依存していました。そして、他人も会社も社会も怖くて一般の会社で普通に働くことができないだけなのに芸術家を気取り、そのころ流行のドロップアウトと称してフリーターをしながら、いつか「芸術」で身をたてようとありもしない夢を見ていたのでした。
その頃のわたしには劣等感と傲慢さの2つが折り合い悪く同居していました。友人の一人のM・Kさんはわたしにシュールレアリスムやポップアートなど、いわゆる前衛とよばれる芸術のことを教えてくれたりして、わたしたちのグループのリーダー的な存在でした。
わたしは彼の才能にあこがれ、それにひきかえ芸術的な才能などこれっぽっちもなく、ただわかったふりして芸術や哲学をふりかざすだけの自分が情けなく、大きな劣等感にさいなまれていました。
一方で、自分が何か特別なグループに属している特別な人間で、今振り返り、誰に謝ったらいいのかわからないけれど、一生懸命にまじめにこつこつと働いている世間の人たちにはシュールレアリスムや芸術や哲学などわかりはしないといった、とりかえしのつかない傲慢さも持っていました。それは実は世間から逃げ続けるための逃げ馬の遠吠えに過ぎなかったのですが、その傲慢さが母や兄やまわりの人間を傷つけてしまったことも事実でした。
この映画のアデルとエマの残酷な別れのシーンはわたしの心を掘り返し、若かったという言葉では決して語ってはいけない残酷な青い時代をあぶり出してくれました。
その後のアデルは心に深くエマへの愛と未練と後悔を深めながら、教師として一生懸命働きます。わたしはその健気な生き方を追いかけながら、わたし自身の人生をふりかえり、こう声をかけてあげたかった、「人生はどんな芸術よりも芸術そのもので、どんなアバンギャルドもあなたが子どもたちと格闘してつくりあげる未来にはかなわないことでしょう」と。
わたしもまた、そのことを知るのに何十年もかかってしまいました。わたしのその後は一度は男女5人の共同生活をへて、この映画のような出来事が重なり、結局はそのうちの一人の女性と結婚し、慣れない会社勤めの後、豊能障害者労働センターで16年間活動し、その後も関連のグループで働きながら現在に至っています。
その間、詩を書いてみたり自作の芝居をしてみたりはしましたが、一枚の絵画も一冊の小説も一篇の詩も一本の映画も一幕の芝居も他人や世間に認められることはありませんでしたし、障害者の運動の中でも風采のあがらない、いささか格好悪い人間でしかありませんでした。しかしながら、社会性のまったくないわたしが曲がりなりにも豊能障害者労働センターの一員として人生のもっとも大切な時間を過ごせたことは、わたしの誇りです。

3年後、アデルはエマへの未練からある喫茶店でエマに会います。
わたしがこの時に感じたことは他の人の感想と違っていて、これはわたしの勝手な感じ方と思って読んでください。
アデルはエマと愛し合った青い時とその後の実人生を通じてすばらしい大人の女性に成長しているのですが、エマの方は別れたときのままの小さな枠組みの中で芸術家として進み始めているようです。
妊婦だったパートナーとその子どもとの3人暮らしで、彼女もまた彼女なりの実人生を生きてきたのでしょうし、パートナーともセックスはしているかも知れませんが、おそらくアデルと交わしたような身を焦がすような愛ではなさそうです。
ですから、エマとよりをもどしたいアデルが場所がらも考えずエマを求め、キスをし、体にさわろうとするのを拒みながらも、その理由は「新しい生活があるから」で、彼女もまた芸術への希求の嵐の中にいた「青い時」をすでになくしてしまったのだと思います。それを象徴するように、彼女の髪はもう青くはありませんでした。
ラストシーンのエマと新しいパートナーとの2人展で、エマの友人たちがアデルに声をかけます。この時のアデルにはすでに彼女たち彼たちへの劣等感はなくなり、自分の人生に対する誇りさえ感じさせました。長居せず静かに個展会場を出る彼女を男が追いかけますが、アデルにはもうはっきりと自分のセクシャリティも生き方もしっかり持っていて、タブローに描かれたかつての彼女よりもその後姿はとても美しく、遠ざかるほど大きく見えるようでした。
ネタバレになってしまって、ごめんなさい。
次回はセクシャリティについて書いてみたいと思います。

映画『アデル、ブルーは熱い色』公式サイト

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