「劇団どくんご」

10月2日、大阪の扇町公園にテント芝居「劇団どくんご」を観に行きました。
わたしは最近は年に一度やって来る「唐組」以外はほとんど芝居を観ていません。今年はじめて蜷川幸雄の芝居を観たのも唐十郎の作品だったからで、商業演劇とか小劇場とかの区別に関係なく、ほとんど芝居を観なくなってしまいました。
唐十郎の芝居についてはこのブログで少し書いてきましたが、あまりよくわからないままテント小屋の劇的空間とほとばしる言葉が猛スピードで紡ぐドラマツルギーが、少し年代は上でもわたしの生きて来た時代の忘れ物のようで、「これだけはみなくっちゃ」と思ってしまうのです。

「劇団どくんご」は1983年代に結成され、すでに30年の歴史があり、全国数十か所をテント小屋で旅公演を続けているのはこの劇団だけといいます。
わたしはこの劇団のことをまったく知りませんでした。1980年代、つかこうへいや野田秀樹も見逃してきたわたしは、「劇団どくんご」についても名前すら知らなかったのでした。
実はその前日、1970年代から日本の障害者運動を牽引してきた楠敏雄さん(2月19日死去)を偲ぶ会があり、全国から700人の人たちが参加しました。わたしは被災障害者支援「ゆめ風基金」のスタッフとして参加させていただいたのですが、その時にいつもお世話になっている埼玉のYさんからのお誘いで、観に行くことになったのでした。この劇団が埼玉の学生劇団として結成されたこともあって、なにかと縁が深く、Yさんは演出家とも親しいようでした。

開場が午後7時、開演が7時半で、この日は仕事が休みでしたので余裕をもって4時過ぎのバスに乗り、能勢電鉄、阪急電鉄と乗り継ぎ、大阪梅田から歩いて現地に着いたのが6時でした。テント小屋と言うよりは夏に氷を食べれる茶屋という趣で、中から直前の稽古の声が聞こえてきて、唐組のテント小屋とは雰囲気がちがっていました。後からもっと感じることになるのですが、どうもこの劇団は小屋の中と外にいわゆる「結界」を設けないスタイルのようです。テント芝居では常識となった芝居の最後にテントの幕をはずし、公園などの下界があたかも芝居の彼方にあるような倒錯のもとで、テントの密室からドラマツルギーが解き放たれるような演劇ではなく、芝居の観客にも公園で遊ぶ人にも通行人にも芝居のネタを見せてくれるという意味で、直前の稽古自体がすでに芝居のひとつであるようでした。
小屋の前に立っている関係者らしき人(その人が演出家でした)に、開場時間を確かめておいて、近くにある大阪天満の商店街をぶらぶらして時間をつぶし、いざもう一度テント小屋へと向かいました。
小屋の中は土間席ではなく階段席になっていて、この日は一段席を増やしたりするほどの満席でした。
さて、芝居がはじまってすぐに、この芝居は筋を追っても仕方がないとあきらめました。もともと一本の筋のある芝居ではなく、5分から長くて10分ぐらいの主に一人芝居、時には何人かが登場してもそこにあるのはダイアローグではなくモノローグ、つまり一人芝居が何の関連も脈絡もなく続くのでした。これまではひとりひとりの役者が一人芝居を持ち込んで、それを演出家がつないだり切ったりする感じだったようですが、今回は脚本らしきものがあったようです。といっても、それはジャズでいうコード進行や「宇宙」というテーマを約束するだけで、役者はその約束事のもとに即興わ交えながらつぎつぎと芝居をリレーしていったように思います。
ひとつひとつの場面の背後にはポンチ絵が描かれた一枚の布がロープで張られていて、ひとりの役者が芝居をしている時、他の役者たちはその布を張り替えたり、いらなくなった布や小道具を片づけたり、舞台らしきスペースの袖で見ていたりと、それらの行動がこの芝居に組み込まれている演技のようです。
日常にころがっている言葉や事柄が短い場面ひとつひとつの中で非日常、つまり劇的なものに変貌するのですが、彼らはそれらが物語を喚起する前に、あるいはカタストローフをともなうドラマになる前に彼ら自身の手で背後の布を入れ替え、役者を入れ替え、まったくちがった物語へと瞬間移動するのでした。ドラマツルギーの否定の繰り返しといえば、たしかにこの芝居は私の少ない芝居体験から言えば唐十郎とはまったく正反対の、寺山修司に似ているのかなと思いました。
これでもかとたたみかけるエンターテイメントにあふれた芝居はよくも悪くも劇的瞬間のカタログのようで見ていて退屈しませんでしたが、そのぶん、「もうひとつの時間」が持続せず、わたし自身がその芝居の荒野に迷い込み、行方不明になる恐怖を味わうことはできなかったように思います。しかしながら、寺山修司のようにどんどん大がかりの装置(それは社会の権力行使装置のようでした)を用意しなくても、小さなテントとそのまわりの街を舞台にすぐれて現代アートのようなポップなイメージをつくりだすことに成功していたように思いました。
個人的には、わたしはこの芝居を観ている間ずっと、かつて豊能障害者労働センターのスタッフで、後に豊中の障害者団体・エーゼットに移ったSさんや、神戸で「トア・ロード」という飲み屋をやりながら道端に落ちているガラクタを使ったアートで家を飾っていた才能あふれるMさんを思い出しました。二人ともある日、薬の飲み間違いか飲みすぎかよくわからないまま死んでしまいました。かつて伊丹十三が寺山修司のことを「芝居をしていなければ彼は自殺するかも知れない」と言いましたが、そういう彼自身が自殺してしまいましたが、とにかくこの芝居を観ていて、もし彼らがこの芝居に出ていたり、またこの芝居の劇的瞬間と出会っていたら、もしかすると彼らは死ななくてよかったのではないかと思いました。
それほどこの芝居は、だれもがもっている精神の暗闇を笑い飛ばす精神安定剤でと思ったのでした。
そういえばずいぶん昔、Sさんの車に乗せてもらった時、「月に一度、宇宙からあいつがやってくる」とSさんが言いました。わたしが「どこに来るの?」と尋ね、「いつもの荒野に」と答えたSさんのひとみにどんな荒野が映っていたのかを、わたしは確かめることができませんでした。
ともあれ、知り合いに勧められなかったら、こんな不思議な体験をすることはできませんでした。「劇団どくんご」…、小さなサーカスのように、あるいは一風変わった大衆演劇のように、わたしの心に「もう一度みてみたい」という気持ちを残して去って行きました。

劇団どくんごweb

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