島津亜矢「帰らんちゃよか」・10月7日歌謡コンサート

10月7日、NHK歌謡コンサートに島津亜矢が出演し、「帰らんちゃよか」を歌いました。ほんとうに、島津亜矢は何回この歌を歌ってきたことでしょう。そのたびにその時の最高のパフォーマンスで歌われてきたと思うのですが、今回もまた赤っぽい振袖姿の彼女はリラックスした感じで、体も声も調子がいいのでしょうか、とてものびやかで透き通るような高音がとても心地よく聴こえました。ただ、最近のNHKの出演の時はバッサリと短く削られていて、これではこの歌の物語はよく聴きこんでいる人でなければ分からないのにと、少しさびしい思いがします。
だからこそ、彼女らしくどんな設定でも丁寧に歌う姿に胸が熱くなりました。
話題の歌として「STAND BY ME ドラえもん」の主題歌「ひまわりの約束」を作詞・作曲の秦基博が少し緊張気味に歌いましたが、好奇心旺盛な島津亜矢が彼の話を熱心に聴いていたのが印象的でした。

「帰らんちゃよか」について、わたしは以前にこう書きました。
「今や方言だけが人生を語れる」と言ったのは寺山修司ですが、島津亜矢が歌う熊本弁の歌詞のこの歌からは、帰るべき故郷はすでになく、都会もまた憧れの地ではなくなった時代の悲鳴が聞こえてきます。その悲鳴にかき消されそうになりながら、「帰らんちゃよか、お前の思った通りに生きたらよか」と言うその言葉の裏に迫りくる老いを受け入れ、一生懸命に生きようとする父親の心情も…。それでも子どもには自分の人生を歩いてほしいと願う父親のぎりぎりの切なさを歌い、その手紙を読む子どもの思いまでも島津亜矢は「歌を読む」天賦の才能と圧倒的な歌唱力で歌い語るのです。
この歌が聴く者の心の最も柔らかい場所にまで届き、多くの人々が涙を流し、時には島津亜矢自身が歌いながら涙を流してしまうのは、歌手になるために東京に行く彼女と母親を送り出してくれた彼女自身の父親への思いが込められているからなのでしょう。
この歌はいつの時代も変わらぬ親子の愛情や家族のきずなをキーワードにしながら、もう待ったなしの高齢社会における高齢者の尊厳と介護の問題までも包摂している歌として、島津亜矢のたいせつな一曲でありつづけると思います。
(2013.09.16 Mon 島津亜矢「帰らんちゃよか」)

深読みとの批判もありましたが、島津亜矢のもう一つの名曲「感謝状 母へのメッセージ」が星野哲郎の言葉で紡いだ母への永遠ともいえる心情を歌っているのにくらべて、「帰らんちゃよか」は古くは明治以後、新しくは戦後の日本社会の地殻変化を背景にした家族像の変遷を色濃く反映した歌だと思います。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そしてかなしくうたふもの」と室生犀星が詠ったように、戦後の歌謡曲もまた三橋美智也や春日八郎、新しくは千昌夫、吉幾三などによって数多くの「望郷」の歌がつくられ、歌われてきました。歌が時代の写し鏡であることを証明する様に、戦後の復興から高度経済成長の荒波にほんろうされ、経済成長がもたらした都市集中型の日本社会で必死に生きて来たひとびとを時には励まし、時には共に涙し、また時には夢と希望をボストンバッグに詰め込み、今日よりよくなるはずの明日を用意しようとしてきたのは、ほかならぬ歌謡曲だったのではないでしょうか。
そしてまた時代の写し鏡であるだけにとどまらず、時代をこえた先にある未来への予感もまた歌謡曲は時代の鏡の奥に「見えない風景」として描いてきました。それは古くは三橋美智也の「おさらば東京」、「リンゴ村から」、春日八郎の「別れの一本杉」、比較的新しくは新沼謙治の「ヘッドライト」、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」など、東京に人口が集中する中で取り残される地方の人々の悲哀を、そして東京に出てきたものの経済成長の捨て駒にしかなれなかったひとびとの再出発の決意を歌ってきました。
「帰らんちゃよか」は1990年代、ジェットコースターをすべり落ちるようにバブルが終わり、失われた10年の真っただ中で生まれました。経済成長が終わり、ワーキングプアや非正規雇用、長期のデフレ、グローバリゼーションによる日本国内の空洞化と格差の固定など、すでに労働市場としての都会はひとびとに「よくなる明日」への幸福幻想を用意できず、また経済成長の中で取り残されてきた地方もまた、高齢社会のただなかで限界集落が現実のものとなってきました。
「帰らんちゃよか」の物語は、まだ経済成長を多くの人たちが信じ、バブルの傷跡を残す都市生活がかつての幸福幻想を取り戻せるかすかな希望があった時代を背景にしていると思います。「帰ってこい」というには、そこにあるのは今では宝物といわれる里山の自然だけで、実際のところ農業や林業や漁業を継いでもらうには相当の覚悟を求めざるをえず、雇用の確保も子育ても難しい地方です。一方で非正規雇用が4割となり、いまの職場にかじりつくだけでも大変で、低収入と未来への不安を抱える都会で身をかがめて生きる数多くのひとびとがいます。どちらも厳しい暮らし…。
その切ない胸の内を、「帰らんちゃよか、父ちゃんたちはなんとかここで暮らしていく、おまえは自分の思うとおりに生きていけ」と、心の底にある本当の気持ちとは裏腹に、都会で暮らす子どもをはげます父親の心情を歌うこの歌は、同じ時代を同じ思いで生きる数多くの人々の心をふるわせて余りあります。
しかしながら、さらに20年が過ぎた今、ふりかえるとその間に2001年の同時多発テロ、2011年の東日本大災害を経験し、世界も日本もすでに「帰らんちゃよか」と言ってくれる人がいた「ふるさと」をなくしつつあるのではないかと思います。とくに福島の原発事故は、福島で暮らしてきたひとびとにとどまらず、わたしたちひとりひとりの暮らしの基盤がとても脆弱であることを教えてくれただけでなく、政治的にも経済的にも文化的にも、日本社会全体が「帰るべきふるさと」を喪失してしまったのではないかと心配になります。
それでも、歌は生まれ、歌は歌い継がれ、歌は新しい「ふるさと」を必要とする人々にとどけられることでしよう。きっと人類が誕生して以来、そのようにして歌はわたしたち人間のくらしと悲喜こもごもの心情とともに伴走してきたのでしょう。
「人口が減少していく社会」は没落するしかないのか、アベノミクスに象徴されるように人口の減少をくいとめ、「成長を取り戻すこと」でしかわたしたちの社会は輝きをとりもどせないのか、そもそもほんとうに成長を取り戻すことができるのか、それとも「成長を必要としない豊かな社会」が新しく誕生するのか…。
これからの10年がわたしたちとこどもたちにどんな未来を用意するのかは、ほかならぬわたしたち自身の選択にかかっているのだと思う時、未来をも予感する時代の写し鏡として、社会と時代のありようを見つめる新しい大きな物語を描く歌謡曲の復権を、わたしたちは必要としているのだと思います。
「帰らんちゃよか」が今の社会を予見した歌だったとすれば、島津亜矢によってこれからの社会を予見する大きな物語を描く新しい歌がつぎつぎと歌われることを強く願わざるをえません。そして、おそらく「紅白歌合戦」に出る出ないというある意味ちまちました歌謡界から抜け出して、彼女の歌を通して新しい時代を表現したいと考える第二の阿久悠たちが現れるのも、そう遠いことではないと思います。時代がそれを求めている限り…。

島津亜矢「帰らんちゃよか 」

島津亜矢「帰らんちゃよか」・10月7日歌謡コンサート” に対して4件のコメントがあります。

  1. 歳三 より:

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    tunehiko様

    今回のテーマに関係無くて申し訳ないですが

    私は少し前からtunehikoさんのブログの中の「島津亜矢」を始めから読んで見ようと思い時間を見つけては
    「島津亜矢論」の世界に
    入り込んでいます。

    一般に深読みとか裏読みとか云いますが
    唄の読み方がとても興味深いのです。

    このブログに「島津亜矢」と言う固有名詞が
    登場するのは2011年5月だと思うのですが
    現在では150に達する読み応えの有る
    エッセイの旅の途中です。
    ブログ巡りの途中で
    「藤圭子」に出会いました。

    「樺美智子」さんと言う懐かしい名前も
    出てきて、忘れてしまっていたホロ苦い
    記憶が甦りました。

    余りにも懐かしいテーマだったので
    つい、自己満足で書いてみたくなって
    書いてしまいました。

    少し長いので、
    煩わしい時はスルーしてください。

    不本意にも
    あの時代のシンボルに成ってしまった
    「樺美智子」さんは神戸に少し縁のある人で
    私は彼女のお母様による遺稿集を 古本屋で
    買って読んだ記憶があります。
    とても純粋な人だと思いました。

    衝撃的なデビューだった藤圭子。
    五木寛之流に言えば
    「我が心の藤圭子」??
    当時そのハスキーボイスと
    世の中の不幸を全て背負った様な
    無表情で暗い目、暗い雰囲気で唱する唄は
    「怨歌」と言われ社会現象にもなったと
    記憶しています。70年安保の
    無力感が覆っていた時代にピタリと
    マッチしたのでしょうか?

    前にも書きましたが、私の持論として
    神はその時代が要求する存在を地上に
    送り込みその役目を果たす様に
    仕向けて下さいます。
    (但し、私は他の事に関しては無神論者です)

    藤圭子は正に神が送り込んだ
    存在だと思いました。
    私にとってもそれ程衝撃的でした。

    ノンポリと言う言葉は今はもう死語ですが、
    私はノンポリ人間で当時の学生運動にも
    興味はなく、心情的には彼らを理解しても、
    追従する事はなく、冷たい目で彼らを
    傍観していました。
    しかし「藤圭子」だけは、彼ら流の
    言い方で言えば「断固支持」でした。
    (と言ってレコード一枚買う訳ではないが)

    「波止場」「酒」「涙」
    が出て来る演歌を好きになれなかった
    私の心に「藤圭子」が響いたのは
    「演歌」ではなく「怨歌」だった
    からでしょうか?
    もっとも、わたしの藤圭子はデビュー5年程の間だけで、後にシンガーソングライターの母として登場する とても人間臭い彼女は
    全くの別人です。(と思いたい)
    稀代の歌姫はその役割を終えて
    普通のおばさんに戻っていきました。
    tunehikoさんのおっしゃる様に
    歌に殺され、時代に殺された
    のかも知れません。

    私は「新宿の女」より 「京都から博多まで」
    の方が強く印象に残っています。

    演歌の登場人物は何故皆、雪深い北へ
    行くのか疑問に思っていた私にとって

    ♪西へ流れて行く〜 おんなぁ〜

    と西へ向かわせた 天才阿久悠の意思を
    感じ、とても斬新でした。

    亜矢姫「京都から博多まで」
    you tubeで聴きました。

    今調べたら1972年リリースとなってました。
    亜矢姫 は1歳ですネ(笑)

    神は次の時代のかくし球を ちゃんと
    用意して下さってました。
    但し、tunehikoさんのおっしゃる様に
    少し計算を間違って早や過ぎた嫌いは
    ありますが・・・・・・

    当時、私はカネも無く盛り場を彷徨って
    紫煙充満する雀荘で
    明日の糧を求める毎日でした。
    そんな荒んだ心にラジオから流れて来る
    この唄は束の間の癒しを
    私に与えてくれました。
    五木寛之の「サブカルチャー論」に
    ハマっていた私は「艶歌」の
    高円寺竜三がプロデュースする
    新人少女に藤圭子を重ねていました。
    (一説には通常とは逆で、小説「艶歌」を
    モデルに藤圭子をプロデュース
    したと言う説も有ったようです)

    小説の中の「艶歌の竜」が
    競馬新聞を後ろポケットに突っ込んで
    タバコを吹かしながらベンチに
    寝転がってレコーディングに立ち会う姿は
    とてもカッコ良かったです。

    後にテレビドラマになって、
    とても期待しましたが「艶歌の竜」役が
    芦田伸介さんと知り、余りのミスキャストに
    がっかりした記憶があります。
    (世間一般では好評だった様ですが)
    これは名優・芦田伸介さんを
    批判しているのではなく、解釈の問題で
    "ベトコン対ペンタゴン"の戦いでのベトコン側の民衆の底力を語る泥臭い話にして
    欲しかったのに余りにスマートな話に
    成ってしまっていたからです。

    五木寛之の書いていた
    「愛憎二筋」と言う意味が
    島津亜矢の唄を聴いていてやっと
    理解できた様な気がします。

    「流れて津軽」
    あの雪深い大地の底から響いて来る様な
    情念のこもった亜矢姫の唄声を聞くと
    どう言う訳か藤圭子を思い浮かべて
    しまうのは何故でしょうか?

    藤圭子さんを偲んで 合掌

  2. tunehiko より:

    SECRET: 0
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    歳三様
    うれしいコメントありがとうございます。
    いつのまにか、島津亜矢さんの記事が150にもなっていました。
    歳三様のように最初の頃から順番に読んで下さると、とてもうれしい反面、最初の頃はまだ島津亜矢さんのほんとうのすばらしさがよくわかっていなくて、恥ずかしい記事もたくさんあると思います。
    書き進むうちに、いつのまにかわたしが少しはなじみのあるロックやジャズをふくむ音楽、とくにボーカルのある音楽を、彼女の存在をなくしては考えられなくなっていました。
    「艶歌の竜」、なつかしいですね。わたしは不明にも小説を読まなかったので、歳三様のようには理解が足らなかったのかもしれませんが、毎週ドラマを楽しみに見ていました。二木てるみがよかったです。
    藤圭子は少し弁護すれば、ふつうのおばさんに戻れなくて、精神的に追い詰められてとても気の毒な人生になってしまったのではないでしょうか。日本版ジャニス・ジョプリンのようですね。
    「京都から博多まで」は、阿久悠が最初につくった「艶歌」らしいです。
    なにかいつも男を待ってひとつの所にとどまっている演歌の女を移動させたかったと何かで語っていたそうです。
    わたしもこの歌がライブですきでしたが、島津亜矢の歌もとても好きです。
    歳三様の文章を読んでいると、映画の登場人物の語りのようで、とても魅力的です。
    また、読ませてください。
    ありがとうございました。

  3. 歳三 より:

    SECRET: 0
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    tunehiko様

    私の拙い文章をお読みいただき
    ありがとうございました。
    冷や汗物です。

    >日本版ジャニス・ジョプリンのようですね。 正にその通りだと思います。

    昨日、映画(柘榴坂の仇討ち)を見に行った
    帰り、ぶらっと本屋に寄ったのですが、
    偶然、ホントに偶然、
    「怨歌の誕生:五木寛之」と言う新刊の
    文庫本を見付けました。

    藤圭子、怨歌、のことばのかけらがまだ頭に
    残っている今、余りのタイミングのよさ。

    五木寛之初期(60年代)の「艶歌」をはじめ
    歌謡曲、はやり歌に関する
    短編小説と70年に発表された
    「怨歌の誕生」と言う雑文が納められた
    再出版の本でした。2013年12月初版となって
    ましたから、多分藤圭子を追悼しての
    出版であるのでしょう。

    「怨歌の誕生」と言う文は読んだ事が無かったのですが、五木寛之が藤圭子について
    「怨歌」と言う言葉が出来た経緯や
    それが一人歩きして本人の意図しない
    事になってしまった事

    五木寛之の一文で更に人気に火が付き
    五木寛之が藤圭子の保護者の様になって
    しまった事等
    当時の事情や時代背景が書かれています。

    生み親である石坂まさをさんをはじめ
    実名で書かれていました。

    この中で五木は夜中に藤圭子のレコードを
    何気なく聴いた時の情景を細かく描写
    しているのですが
    「島津亜矢」を初めて聴いた時の私と
    余りにも似ているのでウレシクなりました。

    私にとって特筆すべきは(知らなかったので)
    (1)あの藤圭子の暗いイメージは
     作られた物であった事 
    (2)1970年の時点で五木寛之が
     「この輝きは一瞬の閃光であって
      近い将来あの暗い鋭い輝きは
      失われるのではないか?」
    と予言していた事

    ここでtunehikoさんのブログとピッタリと
    リンクしてしまいます。

    tunehikoさんが書かれています。
    [あどけない少女の痛々しさを、むりやりつくらされているような違和感を感じました]

    [「歌に殺された」と言っては
     言いすぎになるでしょうか]

    tunehikoさんの慧眼に
    舌を巻いてる私がいます。

    再出版の時点(2013年12月)
    で五木本人があとがきを書いているのですがそこに tunehikoさんの
    ブログによく登場する、
    唐十郎 寺山修司 三上寛が出てきます。

    又々 tunehikoさんの
    ブログとリンクしてしまいます。

    tunehikoさんの時代を読む確かさに
    敬服すると共に、私の不勉強を
    恥じ入るのみです。

    伝説の馬渕玄三
    さらに
    星野哲郎 叶弦大 吉岡治
    と今では大御所と呼ばれる人達
    の若かりし頃が
    名前だけですが登場します。

    星野哲郎が出て来ると
    単純な私は亜矢さんが
    誉められたみたいで嬉しくなります。

    五木寛之と言う人がその内側にいた人
    だけにとても興味深く読みました。

  4. tunehiko より:

    SECRET: 0
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    歳三様
    つづけてのうれしいコメント、感謝します。
    島津亜矢と星野哲郎と寺山修司と唐十郎と三上寛という風に、こんなことを書いていいかなと思いながら進めてきましたが、歳三様のように理解してくださる方がいて、とてうれしいです。
    この名前の羅列から島津亜矢をはずせば、それはそれで連想されるものなのですが、わたしは島津亜矢のファンになってから、自分の好みや人生の歩みをとらえなおす中心に島津亜矢が存在していて、それはわたしが長い間かかわってきた障害者問題や経済の問題にまで及んでしまうのです。

    五木寛之、こんどちゃんと読みます。この作家はずっと気になっているのですが、お恥ずかしいのですが一冊も読んでいないのです。この人の原作のドラマはよくみてきたのですが…。
    「艶歌」のシリーズを最初に読もうと思います。
    ご存知だと思いますが、「演歌」というジャンルが確立したのは70年代で、しかも五木寛之や寺山修司、ジャズ評論家の相倉久人の影響を色濃く反映したもので、その象徴的な歌姫として、虚像としての藤圭子が異様にブレイクしてしまったことはありますね。
    動画サイトで藤圭子を検索すると、ずっと後の彼女の歌が出てくるのですが、それの方がずっと生き生きしていますし、彼女の歌唱力についてはあまり伝えられていませんが、カバー曲もふくめてかなりの歌唱力で、さすが宇多田ヒカルは彼女の娘と思いました。というのも、藤圭子もまた、ポップスを歌いたかったようです。
    わたしは島津亜矢がかなり早くからポップスを歌ってきてとてもよかったと思っています。そうでなければ、あまりにも優れたその歌唱力があることで「演歌」の窮屈な枠組みにのみおしこめられたら、藤圭子やちあきなおみのように、あるいは実は美空ひばりもそう思うのですが、苦しい想いをしたかもしれません。同じ演歌でも、阿久悠が元気でプロデュースの才能を発揮したら、彼女の可能性を既成の演歌の枠にははまらない歌を提供したと思います。

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