脱炭素社会は原子力パラダイスではない。東日本大震災10年。

東日本大震災から10年の月日が流れました。
戦後最大の自然災害で19744人、行方不明の2256人…、犠牲になった方々に哀悼の意を表します。
テレビや新聞では、大地の底からひっくり返されたように壊された町、困難を極めた避難所、仮説住宅、復興住宅、時と体と心を移しながら、ひとくくりにはできない復興と再生の10年、その膨大な記録と記憶を早送りする報道があふれています。
あらためて津波が押し寄せる光景を目の当たりにした途方もない恐怖と悲しみがよみがえります。まして、その当事者であった被災者の方々の胸中は他人が言葉にできるものではないでしょう。
大災害の後の町の復興と再建はいつも困難を伴いながらも前向きに生きようとする心に寄り添い、時として被災地の担い手の方々の困難な道のりを経た再建・復興・再生のサクセスストーリーが求められます。たしかに町の復興と社会の再生への困難な道を振り返り、これからの夢をともに作り出すための希望の光として報道されることはとても意義のあることと思います。
しかしながら、10年という時で復興に一区切りをつけたようなアナウンスは恣意的で、いまだに42000人の方々の避難者がおられること、その人々に国と行政が一区切りをつけたとして支援の打ち切りを後押しするような空気に憤りを感じます。
それどころか、福島原発事故による被災者は行政発表では36000人ですが、実際はその倍近くの避難者が全国に散在しているといわれています。生まれ育った故郷に帰る決意で生きてきた10年がそれを許さず、避難先を転々として戻れないことをかみしめてきたひとたちがひとり、またひとりと人知れず夢半ばで亡くなられたこともまた、今回の報道で知りました。
わたしは当時、被災障害者救援活動団体「ゆめ風基金」のアルバイトスタッフとしてしかかかわっていませんので、被災地の支援活動をしたとはいえませんが、当時のメール連絡が1000件に達することもあり、各地で広がる被災状況が刻一刻と変わっていくのに対処することで精いっぱいでした。
それでも一度だけ、仙台の障害者団体とゆめ風基金が仮説住宅の広場で開いた、永六輔さんと小室等さんのイベントのスタッフとして参加した時のことを鮮明に覚えています。
1995年に立ちあがった時からゆめ風基金の活動をささえてこられたお二人でしたが、永六輔さんはこの時すでにパーキンソン病で歩くのも話すのもかつての立て板の水といった語り口ではありませんでした。しかしながら自分の障害が進んでいく姿をかくさずにできうる限りラジオの仕事をされていて、その姿勢に長年の永さんのファンは一段とシンパシーを感じ、このイベントの時も雨模様の中、仮設住宅の人々を中心に広場がいっぱいになりました。
仮設住宅に入られている方々はそれぞれ、だれにも言えない背丈を越える悲しみを抱え、まだ涙を流すほどの心の落ち着きもない心境だったと思います。こんな時は笑いを自粛せよという空気に猛反撃し、「こんな時だから笑いが必要なんです」と語る永さんの話に笑い転げながら、途中から降り始めた雨にせかされるように思わず涙が溶けていく様子でした。
後ろで立ってご覧になっている方を座席にご案内しようとすると、「あと少しで行かないといけないので。でも永さんのラジオは何十年も聞いていて、さっき握手してくださって感激です」と言われた後、津波が来た時、後ろから津波が追いかけてきて、もう一分遅かったら命がなかったこと、友達が10人もなくなったことを話してくださいました。

1995年の阪神淡路大震災とオウム真理教の事件によって、わたしたちは戦後日本社会の安全神話が壊れ、国家による監視とわたしたち自身の相互監視が強められる結果になりました。しかしながら一方でわたしたちは多様なひとびとが共に助け合うことの大切さ、ありがたさも発見しました。
そして2011年の東日本大震災によって、戦後日本の経済成長神話と原発の安全神話は壊れました。チェルノブイリで世界が学んだ経験を無視し、世界で最も安全な原発と豪語してきたおごりは未曽有の自然災害によって打ち砕かれたばかりか、安全対策を怠ったつけをも大災害のせいにしました。
わたしの友人が働いているドイツの会社は東京の会社を引き上げて大阪に仮移転し、会社が費用を負担し家族も全員避難した他、ドイツの正社員に帰国を命じました。
ドイツに限らず、東日本大震災を機に「フクシマ」に学ぼうと欧米諸国は原発を減らし、なくしていく政策に大きく変更しました。日本は、自分の地域で起きたこの大事故の教訓さえ受け止めず学ばず、いまもまだ原発マネーが経済を暴力的に支配し、翻弄しつづけています。
わたしは東日本大震災によって長い間世界を席巻していた新自由主義の勢いが止まり、日本においても「経済成長」によってしか社会も個人も豊かになれないと信じてきたわたしたちのマインドコントロールが破れるのではないかと期待していました。
しかしながら、それはとても甘い希望だと思い知りました。
反対に、日本の支配層はそれを機に一段とギアを上げ、一部のグループに属するひとたちへの利益確保のために政治も経済も支配し、それからはずれているたくさんの人々には「幸せも豊かさも自己責任」を押し付けてきたように思うのです。
その表れのひとつが福島原発の被災者への支援の打ち切りや、残る人、避難したままの人、帰ってきた人との取り返しのつかない分断を放置し、それを利用して原発の再稼働どころか、新規建設をすすめようとしています。菅政権の2050年脱炭素宣言は、再生エネルギーと省エネルギーだけではなく、原発促進によって実現するとしています。
東京オリンピックを復興の象徴とし、さらにコロナに打ち勝った人類の勝利として東京オリンピックの開催を強行しようとしているのも、また大阪に目を移せばインバウンドに期待した万博やIRに焦点を据えた大規模開発のために大阪市の財源まで大阪府が取り上げるという、こんな理不尽なことをすすめようとしているのも、どれだけ何度も人々の意志が明らかになっても、当初の予算を大幅に逸脱してもなお辺野古の建設をつづけるのも、わたしたちの社会が根底から分断され、すでに修復不可能なところに追い込まれてしまった表れなのだと思うのです。
さらに進化し、世界でもっとも安全な原子力と胸を張るひとたちにとって、この国に住むたくさんのひとびとは「棄民」でしかないのでしょうか。
今回の一連の報道番組の中で、NHKが連日放送したドキュメンタリーのひとつ、NHKスペシャル「私と故郷と原発事故」で、浪江町から避難した当時小学生だった女性の言葉が突き刺ささります。
浪江町から車で1時間ほど離れた町の仮設住宅で暮らし、通った小学校で「放射線がうつる、汚い」、「あいつと目を合わすと腐るぞ」と、いじめと差別が日に日にエスカレートしました。「つらかったけれど、この経験を前向きにとらえて生きていこうと思います」と彼女はいいました。
原発事故の避難者に浴びせられた差別と偏見は今でも全国各地に蔓延していますが、彼女彼たちがこの10年で受けた傷は計り知れず、もしかすると一生消えることはないのかもしれません。
いま、新型コロナ感染症が暴き出した「自粛警察」などヘイトスピーチが暗躍するわたしたちの社会は、彼女たちの証言を受け止めることも、謝罪することも反省することも学ぶこともないまま、どこまで、いつまで漂流しつづけるのでしょう。

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