「永六輔 戦いの夏」

NHKヒューマンドキュメンタリー「永六輔 戦いの夏」を観ました。 永六輔さんは去年、パーキンソン病と診断され、長年続けてきたラジオ放送でもろれつが回らなくなり、引退も考えたそうです。番組を降りるべきだという声があった一方で、治療とリハビリをしながら活動を続けている永さんの姿勢に勇気づけられ、自分ももう少しがんばろうと思ったというリスナーも紹介されていました。 8月23日の被災地仙台の仮設住宅でのイベント・「永六輔さん、小室等さんと語ろう IN 長町」の様子も映っていました。前に書きましたが、わたしはこのイベントの手伝いでその場に立ち会うことができました。雨模様の中、永さんと観客とが、インターネットでのつながりとはまったく異質の深い絆によってつながっていることを目の当たりしました。全国津々浦々、ラジオを通してこんなに深くて広いネットワークができていることは承知していましたが、その現場を観て、とてもじゃないけれどこれに勝るソーシャルネットワークは、少なくともこの国にはないと確信できます。 「日本中どこへでも足を運び、出会いを大切にする。そして、地域に目を向けつづける。」 放送人として、永さんが肝に銘じてきた言葉は、永さんが師と仰ぐ民族学者・宮本常一が教えてくれたと永さんは言います。「スタジオでものを考えるな。ラジオは電波だ。電波はどこにでも飛んでいく。だからきみもどこへでも飛んで行って、電波が届いた先がどうなっているのかを見聞きしなさい。話を聞きなさい。そして、それを持って帰ってスタジオで話しなさい。」 この言葉を忠実に守り、何十年もつづけてきた結果、ラジオを通したつながりがどんどんひろがっていったのです。 そして、ラジオでの永さんのことばにはげまされ、勇気づけられ、生きる力をもらってきたリスナーが永さんの病気を心配し、どんなに聞きづらくてもラジオに耳を傾けつづけ、永さんが少しずつ元気になってくるのを共に喜び、いつの間にか永さんをはげましている。 仮設住宅でのイベントでも、見に来ているひとはほとんど永さんのラジオ番組を聴いていて、自分の身に降りかかった悲しみよりもまず、永さんが元気にステージに立って話をしてくれていることに感激されていることが、雨の中、わたしたちが配ったカッパをはおる後姿をみただけでわかりました。ほんとうに、「ひと」ってすばらしくいいな、と思いました。 今はテレビがきらいという永さんが、「夢であいましょう」など、先駆的な番組の放送作家として活躍し、その中から生まれた「上を向いて歩こう」などのヒット曲を次々と生み出した作詞家でもあったことなどから離れ、全国各地を旅しては旅先で独特の筆致のハガキを書く、そんな永さんがたくさんの人に尊敬され、愛されてきたことが病気をきっかけにより多くのひとの知ることとなったのです。 30年つづけてきた京都の「宵々山コンサート」を今年限りにすることを決め、一週間のプレイベントと、当日のフィナーレの様子も映されていました。 このコンサートがはじまった時は政治的にも文化的にも激動の時代で、自分の主張を表現する若者の行動に永さんも刺激を受けたそうです。 「ぼくが作詞し、中村八大さん、いずみたくさんが作曲し、坂本九が歌うというのは、ぼくの歌ではない。自分が詩をつくり、自分が作曲し、自分が歌うフォークソングがほんとうの歌だと思った。ウッドストックでは、若い人が自分の主義主張を歌で表現していた。 それでぼくは作詞をやめた。」と言う永さんは、やはりすごい人だと思います。放送作家と言い作詞家と言い、とびぬけた才能と確立された名声がありながらあっさりとそれを捨ててしまう勇気は、なかなか持てるものではないでしょう。 そんな永さんの人となりを伝えた後で、この番組のほんとうの意味だったと思うのですが、「戦いの夏」と名付け、治療とリハビリをつづけながら、大震災の爪痕が残ったままの被災地と、旧友を訪ねてのモンゴルと、京都への旅に同行しながら、永さんの死生観を番組は探ります。 豊能障害者労働センターの一員として1995年に永さんのトークショーを主催し、その後も被災障害者支援「ゆめ風基金」のイベントの手伝いで何度も永さんを見る機会を得ました。今回の被災地でのライブの時も控室で永さんをお迎えしましたが、1995年にはじめて永さんを間近に見た時のオーラは今でも変わらず、とてもやさしくてとても過激でした。 永さんの「戦いの夏」はわたしたち放送を観る者にとっても、また幸運にも永さんと出会えた者にとってもとても暑い夏でしたが、勇気をくれた夏でもありました。

2011年8月23日 仙台市長町の仮設住宅広場

2011年8月23日 仙台市長町の仮設住宅広場

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