「祝春一番2015」

5月6日、「祝!春一番2015」コンサートに行きました。毎年、ゴールデンウィークに開かれるこのコンサートの最終日でした。
1971年に天王寺野外音楽堂で開かれた第一回から79年までの9年間と、途中長い休止をへて1995年からは服部緑地の野外音楽堂で再開され、今年は30回目の開催となりました。
1971年、福岡風太、阿部登などを中心に、1969年の中津川フォークジャンボリーやウッドストックなどの流れを受けて、自分たちが聴きたい音楽を自由に聴き、歌いたい歌を自由に歌う場を大阪の地に作り出そうと、天王寺野外音楽堂で第一回「春一番」が始まった時、日本の社会は60年代の激動がうそのように高度経済成長へのアクセルを強く踏み始めていました。
わたしは60年代の学生運動も安保闘争も佐藤首相訪米阻止闘争とも無縁で、当時の体制側の人間からも反体制側の人間からも「うっとおしくて覇気がない」暗い青年でした。
そんなわたしでも、同年代の若者が世の中にさまざまな異議申し立てを果敢に実行した熱は「何事もなしえない」と悶々と暮らすわたしの心までも熱くしました。その熱は1970年代の「一億総中流」へとばく進する世の中の「変わり身」についていけなかったわたしに心のほてりとなっていつまでも残っていました。
奇しくもビートルズが解散し、心のよりどころをなくしたわたしは、寺山修司の影響もあって中学生時代に親しんでいた歌謡曲に救いをもとめ、寺山がいう歌謡曲的人間として、日常の出来事から政治や社会問題までも藤圭子や畠山みどり、美樹克彦、森進一、青江三奈などの歌を勝手に解釈し、時にはひかれ物の小唄として、時には我田引水もはなはだしく「かくめい」の歌として、自分の人生の道標のように歌謡曲にすがっていました。
そんな時、わたしの目に飛び込んできたのが朝のテレビ番組が報じる「中津川フォークジャンボリー」に飛び入り出演した三上寛でした。同時代の若者が小室等や井上陽水、吉田拓郎と、フォークからニューミュージックへと進んでいったときに、わたしは演歌のようで演歌でなく、歌謡曲のようで歌謡曲でもない「Aマイナー」(彼の歌がCメジャーのような明るいフォークではなく、日本調で暗い旋律のAマイナーの曲が多いことから、一部でそういわれていました)のフォーク歌手・三上寛と出会ったことで、歌謡曲の世界だけに先祖がえりしないですみました。
いま思い返すと不思議なことですが、わたしは日本調のメロディーで時には世の中の理不尽さをあばき、時には東北の暗い因習に抑圧された青春をギター一本で歌い叫ぶ三上寛によって、日本のロックにめざめたのでした。それはちょうどボブ・ディランがフォークの弾き語りからザ・バンドをバックにロックになったように、わたしにとっては三上寛が歌謡曲をもふくむ日本の新しい音楽の平野を広げてくれるように思いました。
1971年、第一回「春一番」コンサートが開かれたという情報は当時の新聞やテレビでも報道され、中津川フォークジャンボリーとともに、「自分が歌いたい歌を歌い、聞きたい歌を聴く」という若者の文化・既存の体制的な文化に対抗する文化として、日本の音楽シーンに少なからず衝撃を与えました。
それは60年代後半の若者の異議申し立てが政治や社会体制から、音楽や演劇、文学、絵画など個人の心と体を通ることで熟成される芸術や芸能へと「たたかう」場所を変えたともいえるでしょう。そして、音楽の分野における新しいたたかいには60年代の政治闘争などに参加しなかった、参加できなかった多くの若者たちが参加し、「自分らしさ」をもとめ、既存の音楽産業に頼らない新しい表現を切り開こうとしました。
「春一番」コンサートは時代を切り開く草の根コンサートとして圧倒的な支持を得て、毎年才能と情熱にあふれた若者が出現し、刺激的で野心的な表現の場でありつづけました。
1979年を最後に長く休止していた「春一番」コンサートが1995に再開され、現在まで続いているのは、このコンサートが1971年という戦後民主主義の大きな曲がり角から始まり、「歌いたい歌を歌い、聴きたい歌を聴き」、「自由という荒野」を決して手放さなかったゆえであり、Jポップに吸収されない日本のロックのよりどころとして、大切なライブイベントなのだと思います。
毎年、3日から6日までの4日間、「春一番」が選ぶとっておきのシンガーやグループが出演しますが、この時期は子どもたちが家に来たりして、何かと忙しく、今年も6日の最終日しか参加できませんでした。
「春一番」に来ると、自分がほとんど音楽をしっかりと聴いていないことに愕然とします。6日の出演者の中にはなじみのあるひともかろうじて名前を知っているひともいるのですが、まったく知らないひとも少なからず出演していました。むしろわたしにとって「春一番」の楽しみ方は、まったく知らないひとの音楽と出会えることで、2013年は恥ずかしながらこの歳になって曽我部恵一の音楽と出会ったことが音楽の神様からのプレゼントでした。その時は大人数のバンドでお客さんも踊りだし、最高に盛り上がったところで、彼が「ジャン!」とギターをかき鳴らした一瞬、それまでの熱気が一気に醒め、客がシーンと静まり返ったのを今でもよくおぼえています。
そんなわけで、今年も午前11時から午後7時ぐらいまでのぶっ通しのライブの中で、知っているひとも知らないひとも心がわきたつ演奏が続きました。
木村充揮や村上律、金子マリ、ぐぶつなど、常連のグループは「春一番」にふさわしいライブパフォーマンスでお客さんを喜ばせました。とくに木村充揮はさすがの人気で、「天使のダミ声」といわれる天性の声と歌唱はますます円熟してきたように思いました。
そして、まったく知らなかったグループでは高田漣、AZUMI、ヤスムロコウイチ、リーテソンとPiratesCanoeの演奏を聴けてとても良かったです。
個人的にはヤスムロコウイチとリーテソンはタイプが違いますがそれぞれ心を打たれました。
そして、最後に登場した山下洋輔のピアノはやはりすごかった!
1969年、大学紛争のさ中に山下洋輔(p)、中村誠一(ts)、森山威男(ds)という初代トリオが早稲田大学バリケードの中で演奏したライブ盤・伝説のLP「DANCING古事記」を通信販売で買ったものの、それ以後生のライブに行ったのは2回程度しかありませんでした。
わたしが今仕事ですすめているゆめ風基金20年イベントで、山下洋輔トリオの2代目のサックス奏者・坂田明さんを迎えることもあり、実は3日に坂田明が出演したのですが、この日はどうしても参加できませんでした。
あつかましいことを言えばこの2人の演奏を聴けたら最高に幸せだったのですが、そんなことを望む方が間違いで、それでもやはりこの2人には共通したものがあり、それはもし音楽の革命があるとすれば、革命の音楽そのものを背負っている彼らの音楽がその先頭を走っているということでしょうか。
山下洋輔のピアノ演奏をステージがあるとはいえ2、3メートルのところで見ることができたのですが、このひとのピアノはとても破局的で(破壊的)で、それでいてセンチメンタルな叙情にあふれていました。
同じピアノでも、小島良喜とはほんとうに違うなと思いました。小島良喜の場合はピアノの音ひとつひとつが水滴のように湿っていて、まるで遠い沖から幾億の水滴が数珠つなぎとなり、やがて波となって夜の海にその白いはらわたをきらめかせるような、なまめかしくもメロディアスな、ブルースのピアノです。
山下洋輔の場合は反対に、意外と「春一番」のような野外コンサートにあっていて、荒野に向かい、ピアノ音ひとつひとつが石ころのようにごつごつとしていて、まるで修行僧が杖で空の青さを引き裂き、隠れている仏像を彫り出すような苦行をしているようでした。
まったく何もない所から音楽をつくり出す彼はピアノと格闘しているようでした。
ところが、最後にダンスのNIMAとのコラボレーションではとても柔らかい表情になり、いつしか彼とピアノが折り合いがついたように幸せな関係になったように思いました。ジャズに限らず音楽は、実はひととひととが競い合うものではなく、助け合い、共に生きるためのメソッドなのかもしれません。
そう思うと、「春一番」は出演者とスタッフとお客さんと、そして自然とが共存する貴重な場所なんだなと思います。
ひとはひとを傷つける武器も発明したけれど、人の心をいやす楽器を発明し、歌を歌うことも発明したことを、「春一番」は今年も教えてくれました。

ヤスムロコウイチ「夜を見てた」

『ああ素晴らしき音楽祭vol.2』リーテソンと港町コンボ "君はどこ

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