唐組「透明人間」

毎年、この時期に大阪から始まる「唐組」の春の公演を観に行きました。
唐十郎の芝居を初めて観たのはわたしぐらいの年令からするとずいぶん後からで、「状況劇場」として大阪天王寺の野外音楽堂での「風の又三郎」でした。この頃は初期の黄金期以後の根津陣八、小林薫の時代でしたが、たしか台風がすぎた直後で、ほんとうに芝居があるのか問い合わせたことを覚えています。
その時もいまも、わたしは紅テントの幻想的な密室空間での何かを思いつめた緊張感と、そうかと思えばダジャレを連発しながら早口のセリフで物語が強引に展開する不思議な物語に魅せられる一方、その芝居の本当の意味がよくわからないでいます。
彼の芝居に魅入られたひとたちの多くはわたしと同じような感想で、中には「意味を求めても仕方がない」というひともいます。芝居に意味を求めるよりも、2時間ばかりの密室空間に閉じこめられ、芝居の終わりにその密室空間が解体され、巷の夜に放り出されるカタストロフィーに身を任せる瞬間こそが唐十郎の演劇体験だとするのもまた間違ってはいないのだと感じますし、そこから何を見出すかは観る者に任されているのだと思います。
状況劇場から唐組へと紅テントの演劇空間は微妙に変わってきましたが、唐十郎の芝居には目の前で繰り広げられる物語の展開の裏側に日本の近・現代史の暗闇が広がり、芝居の中で語られる事件や戦争や災禍がその暗闇の歴史のるつぼで再構成され、テント小屋の密室空間にせり上がってきます。
登場人物たちの「こだわり」とそのこだわりの故郷というべき日本の暗黒史の只中に放り込まれたわたしは、そのこだわりの物語があまりにも純情な物語なので、わたし自身もまた破局へと突き進む純情物語の「もうひとりの登場人物」と化してしまうのでした。
そして、ひるがえる紅テントが去った後も、その純情物語の「その後」は巷の夜に放り出されたわたしの心のひだにべっとりとへばりついたままで、役者たちの顔と声から逃れられず、「その後」のつづきを求めてまた紅テントの中に迷い込むのでした。
今回の公演は90年代の唐十郎の最高傑作といわれ、いままでタイトルも物語の展開も違う形で何度か再演されてきた「透明人間」の初演版でした。

ある暑い日、僕の町内に「水を恐がる犬」の噂がひろがった。 保健所員・田口はふってわいた狂犬病騒動の調査にとり掛かった。 調べを進めていくうちに、ある煙だらけの焼きとり屋の二階にたどり着く……。 そこに間借りしている老調教師・合田とその飼犬・時次郎、同じくその焼きとり屋に居候する、合田の元軍用犬学校時代の同僚の息子・辻くんが、その元凶であった。 あまつさえその時次郎は、この騒ぎをよそに辻くんと散歩中だという。 そんなところへ野球広場の少年が咬まれたという一報が飛び込んできた。 町内は大騒ぎになり、母親は少年を連れてどなり込んでくる勢いだ。 ところが当の辻くんは、犬を野放しにしたままひとり帰り、店の何故かしゃべらぬ女店員・モモを相手に語り始めるのだった。 「浮かんで、行け、どこまでも逃げて行け。そして、又会う時、この水中花の誓いを忘れるな。おまえが、もう俺を忘れていても、俺は、また、この水中花に似たものを、おまえにかざそう。そしたらきっと俺と思え」 スーパーマーケットの前にできた水たまりは、いつか戦時中の福建省にあった演習地の沼へ。幻の沼は時空を駆け巡り、水が水を呼ぶ恐水幻想が雨降る焼きとり屋の二階にあふれだす。 透明人間はここにいたのか!

パンフレットに書かれた「物語」はどこに行くやらわからないのですが、といって難解な芝居とは言い難く、大衆演劇と同じ人情小話が随所にちりばめられたわかりやすい物語でもあります。わたしがわかりにくいと思うのは物語の筋書きではなく、登場人物の「こだわり」の背景にある暗黒の歴史的事実と、その呼び水となるアイコンが何を意味しているのかと考え込んでしまうからです。
その上で理解できないところがいっぱいあるのですが、芝居を観ながらわたしなりに感じたこの芝居の「こだわり」について、書いてみようと思います。
唐十郎の芝居にはよく水がでてきます。初期の名作「少女仮面」ではひとりの男が水を飲み続けるシーンがありますが、この底知れぬ「渇き」は唐十郎自身の戦争体験が深くかかわっているように思います。それだけでなく、唐十郎にとって時には沼であったり池であったり海であったりする水は彼の劇的幻想の源泉で、「こだわり」という幻想の世界、「向こうの世界」への入り口で、唐十郎が元気に舞台に出ている時は必ず大きな水槽に潜るのがお約束でもありました。
「透明人間」では降り続ける雨で町の下水管があふれ、スーパーマーケットにできた水たまりが戦時中の福建省にあった日本軍の軍用犬の演習地の沼へとつながって行き、それはめぐりめぐって焼き鳥屋の2階の大きな水槽へとつながって行きます。
芝居は夏の暑い日、狂犬病とうわさされる犬を探して、保健所員の田口が焼き鳥屋の2階の押し入れに住むその犬の飼い主・合田を訪ねるところから始まります。そこで問題の犬は合田の元軍用犬学校の同僚の息子・辻と散歩中で、その途中少年が咬まれたというニュースが入ります。しかしながら少年を咬んだのは辻で、彼は犬を野放しにしたまま焼き鳥屋の2階に戻ってきます。
辻の父親は戦時中福建省で犬の調教をしていて、モモという犬に人間と犬という以上の特別な愛着、人間の女を愛するに近い感情がありました。
ある時、狂犬病が発生し、上の命令で調教した犬を殺害しなくてはならなくなりました。その時父は堪え難く、モモをこっそり逃がそうとしますが医務官に発見されてしまいます。医務官は「泥沼にオモリをつけた赤いダリアを沈め、その花をモモが取ってこれたら逃がしてやろう」と言います。ダリアを取れなくて浮き沈みするモモを見かね、父は沼に飛び込み、沈んでいるダリアをモモにくわえさせ逃がすのでした。「お前の事は忘れない!いつかきっと会おうな」と。
話は現代に戻り、辻は父親の記憶の檻に閉じ込められていて、父親が逃がしたモモという名の女を探し続けているらしくて、この焼き鳥屋にもモモという名前の女がいることを知ってやってきたようなのです。
父親がモモと名付けた中国人娼婦と暮らしていた記憶を引き継ぎ、焼き鳥屋の店員モモと入れ替わったモモに似た娼婦と暮らす辻…。
父親の記憶を物語るのは辻自身とモモに似た娼婦で、焼き鳥屋の店員モモは話ができず、ただ、「風は海から 吹いてくる 沖のジャンクの 帆を吹く風よ  なさけあるなら 教えておくれ わたしの姉さん どこで待つ」と、か細い声で歌う姿が保健所員の田口には愛おしく映るのでした。
モモ似た娼婦がこの歌を中国語で歌い始めると、モモもまた中国語で歌い、この時、わたしはモモが中国人で、彼女もまた辻の父親の記憶を継承し、父親の愛した犬のモモでもあり、中国人娼婦のモモでもあったのだと思いました。
この芝居では舞台上手の水槽が大きな役割をしていて、焼き鳥屋のモモは辻によって水槽に沈められ、辻もまた銃で撃たれ、胸から血ならぬ水を吹き出し、水槽に沈みます。
そして、芝居の語り手でもあった田口もまた、心惹かれるモモが水槽からせり出し、彼女とともに水槽に消えていきます。
このラストシーンには多くの観客がジーンときましたが、わたしはこの水槽が福建省の演習地の沼につながっていて、モモは田口を除く登場人物を日中戦争のさ中へと連れ戻したのかも知れないと思いました。そして田口がモモへの純愛によって日本と中国の暗闇の歴史をくぐりぬけ、現代のアスファルトに覆われた地下の水脈へとモモをもう一度連れ戻してくれることを願いました。

わからないことがまだまだたくさんあります。水中花が父親と愛犬モモが沼の中で赤いダリアを手に取って誓った「生き延びよ」というアイコンであったことは少しわかりましたが、タイトルになっている肝心の「透明人間」が何を意味しているのかわかりません。
「『透明人間』と言う題名は自らが成し得ぬ事を託す存在、そしてラストでは自ら透明人間になって成し得なかった事を成そうとする意思を示す。この戯曲、前回は「水中花」と題されて公演された。水中花は辻とモモの絆でもあり宿命。モモの歌は現代と15年戦争を繋ぐタイムマシンであり、犬と人間・日本と中国の変換装置でもある。」という、すばらしい劇評をみつけましたが、正直わたしはよくわからないのです。
ただ、田口が「夜のひさしに当たる五月雨は、誰の涙かっていう。――あれは透明人間が歌っていたんじゃない。孤独な男の歌だった」というセリフが、モモが歌うこの歌とともに、いつまでも心に残っています。

やっぱり唐組の芝居はいくら筋書きを書いても「ネタバレ」とは程遠く、わからなくてせつなくて心痛くて、それでいて乾ききった日常生活の床をスパッとめくり、血と汗にぎり、少年少女のように心を震わせる、わたしにとって年に一度の栄養ドリンクのようです。とても大好きな劇団です。

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